小山内薫
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小山内 薫

誕生1881年7月26日
広島県広島市広島市細工町
死没 (1928-12-25) 1928年12月25日(47歳没)
東京府東京市四谷区南寺町
墓地多磨霊園
職業演出家劇作家小説家
最終学歴東京帝国大学英文科卒業
代表作『大川端』(1911年)
『息子』(1922年)
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小山内 薫(おさない かおる、1881年明治14年〉7月26日[1] - 1928年昭和3年〉12月25日[1])は、明治末から大正昭和初期に活躍した日本劇作家演出家批評家[2][3]

日本の演劇界の革新にその半生を捧げた"新劇の父 [2][4][5]

1909年に「自由劇場」を、1924年に土方与志らと「築地小劇場」を設立し、新劇運動に尽力した[2][3][4][6]。戯曲に『第一の世界』(1920年)、『息子』(1922年)などがある。また、1919年に松竹本社理事兼松竹蒲田撮影所撮影総監督となり、トーキー(発声映画)が登場する邦画黎明期に関わった。
来歴

1881年(明治14年)7月26日、広島陸軍衛戍病院長・小山内建の二男として後の広島市細工町(現在の大手町一・二丁目付近)に生まれた[2][4][7]。父は旧弘前藩士であった[8]。5歳のとき父が38歳で早逝したことから一家で東京市麹町区富士見町へ移り住む[2]。母親が芝居好きで、少年時代から演劇に親しむ[4]麹町幼稚園[9]富士見尋常高等小学校[9]府立一中を経て、旧制一高に進学。高校時代に失恋をきっかけに内村鑑三に入門。内村の主宰する雑誌の編集などを手伝ったが、まもなくキリスト教を離れた。東京帝国大学文科大学文学科に進学。1学年留年しており[4]、英語教師ラフカディオ・ハーンの解任に対する留任運動に加わったためともいわれる[4][10]。在学中から、亡父のかつての同僚でもある森?外の知遇を得ており[2]伊井蓉峰の一座の座付作家となって舞台演出に関わったり、詩や小説の創作を行った[2]

1906年(明治39年)、東京帝国大学文科大学文学科(英文学)卒業[11]1907年(明治40年)、知人で木場の材木商だった数井政吉から資金援助を受け、1907年(明治40年)、同人誌『新思潮』(第1次)を創刊[2]。6号まで刊行し西欧の演劇評論・戯曲を精力的に紹介した[3]1908年(明治41年)に書いた『内的写実主義の一女優』という文献の中で、初めて「演出」という言葉を使ったといわれる[12]。1909年から読売新聞に連載後、1911年出版された自伝的小説『大川端』では、芸者との恋模様を描いた。

1909年(明治42年)、欧州から帰国した歌舞伎俳優の二代目市川左團次と共に自由劇場を結成[2][3][6]。第1回公演にはイプセン作、鴎外訳の『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』を上演し[2]。当時ヨーロッパの主導的な芸術理論となりつつあったリアリズム演劇の確立を目指し、新劇運動を起こす[2][3][6]。20世紀初頭の日本の代表的演劇は歌舞伎で、看板役者中心の演劇であり、客は個々の役者の芸を堪能しに芝居見物に出かけた。このような演劇のあり方に対して、小山内の考えた近代演劇とは、何より戯曲を優先し、それを正しく表現する媒介としての演出、演出に基づいて初めて演技がある、というものだった[6]

1910年(明治43年)、慶応義塾大学部文学科の講師として迎えられ、劇文学の講義を受け持つ[4]

1912年 - 1913年にかけて渡欧し[2][6]モスクワベルリンロンドンなどを訪れた[6]。各地の劇場に通ったが、特にモスクワではモスクワ芸術座による『どん底』を2回観て、俳優・演出家スタニスラフスキーの自宅に招かれた。この時、輸入業者の夫人としてモスクワに居住していた(後の女優)東山千栄子とも面会している[13]

同じく渡欧していた親友・山田耕筰は、小山内との関係から演劇や舞踏への傾斜を深め、帰国後の1916年大正5年)、小山内と移動劇団「新劇場」を結成した[14][15][16]石井漠はこれに加わり、創作舞踊詩を始めた[17][18][19]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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