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をお願いします。(2020年5月) 日本の政治家小山 健三こやま けんぞう
生年月日 (1858-07-23) 1858年7月23日(安政5年6月13日)
出生地武蔵国埼玉郡忍城内(現・埼玉県行田市)
没年月日 (1923-12-19) 1923年12月19日(65歳没)
所属政党研究会
称号正四位勲二等
貴族院議員
選挙区(勅選議員)
在任期間1920年6月2日[1] - 1923年12月21日[2]
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小山 健三(こやま けんぞう、1858年7月23日(安政5年6月13日) - 1923年(大正12年)12月19日)は明治時代から大正時代にかけての日本の官僚、教育者、実業家。
前半生は教育者、近代日本教育の建設者として、とりわけ専門教育の礎を築くことに大きな功績を残し、東京高等商業学校(現一橋大学)校長などを歴任。後半生は、三十四銀行(後の三和銀行、現三菱UFJ銀行)第2代頭取に就任して、事業を大きく発展させるとともに、日本の金融界の発展に尽くす。福沢諭吉の養子であり「日本の電力王」と呼ばれた福沢桃介に、「東に渋沢栄一、西に小山健三あり」と言わしめた。貴族院議員。 1858年(安政5年)、武蔵国忍藩の下級士族、小山宇三郎の長男として生まれる。1864年(元治元年)、7歳より水谷氏の私塾(寺子屋)に入り、漢籍の初歩と算術習字を学び、当時から成績優秀として知られる。1868年(明治元年)に母を失い水谷氏の私塾を去り、松平家が藩主の忍藩の藩校「進修館」の生徒となり、翌年から培根堂 東京において小山は、宮崎正謙 1875年(明治8年)6月より長野県師範学校予科の訓導として赴任し、同年照子と結婚。しかしすぐに教職を辞し、妻を長野に残したまま、新潟に旅立つ。東京時代に化学を学んだドクトル・パアムを頼りに新潟から海外に学問の修業に出ようと考えたためであったが、既にパアムは東京に戻っており会うことは出来なかった。この時ドクトル・パアムに出会って洋行(海外留学)を実現していたら、全く違う人生になっていた可能性が高い。その後前橋で5年間教鞭をとることになる。結婚4年目の1878年(明治11年)長男・敏雄を授かるが、翌年3月に亡くなってしまう。その悲しみも冷めやらぬ@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}1881年(明治13年)[要検証 – ノート 1883年(明治16年)26歳で長崎に赴任、学務課長と長崎師範学校長を兼務し6年半に渡り長崎の教育界の組織づくりを行うことになる。長崎は江戸時代、唯一外国人渡航が認められた地であるにもかかわらず、明治時代になり一旦は設立された医学校、外国語学校、師範学校は廃止され教育が荒廃していた。赴任の翌年に長女みね(3歳)を失うが仕事に邁進し、小山はまず女子師範学校を1884年(明治17年)に男子の師範学校に併設する形で開設。1887年(明治20年)には、旧制ナンバースクールの第五高等学校の前身、第五高等中学校を設立。長崎県衛生課の管轄下にあった長崎医学校を学務課に移管し学科過程、校則を改変し予算を増やし後の長崎大学医学部の礎を築いた。 また、商業教育の重要性を説き、消滅していた長崎の商業学校を1886年(明治19年)に復活させる(現長崎市立長崎商業高等学校)。商業学校を復活させる上での一番の問題は予算であったが、小山は「五厘金
人物
生い立ち/武州忍時代(1858年-1872年)
学問修業/最初の東京時代(1872年-1875年)
長野・前橋・東京時代(1875年-1883年)
長崎・熊本時代(1883年-1889年)
この時期、1887年(明治20年)、初代文部大臣森有礼の視察を迎えてから森との交流が始まる。長崎の「教育界」という雑誌に小山は「島国である日本に将来必要なのは海運業であり、商船学校の設立、航海教育が急務であるとの論文を投稿、これを東京の森有礼が目にし、即座に商船学校が整備される。またこの年、森有礼に随行して熊本に出張して数ヶ月後、急遽、熊本の第五高等中学校医学部校長兼任の命を受け、1889年(明治22年)まで長崎と熊本を行き来する多忙な日々を送ることになる。
1889年(明治22年)11月5日、第五高等中学校教諭として長崎を離れ熊本に赴任するが、わずか半月後に東京職工学校幹事、東京職工学校委員に任ぜられ、東京に戻ることとなる。1889年、次男・健男が、1891年、三男・恒男が生まれる。 1895年(明治28年)文部参事官に昇進した小山は東京高等商業学校(後の東京商科大学、現一橋大学)の校長に就任し、すぐさま学校改革に着手する。商業道徳科を設けて近代商人の職業倫理を徹底し、商学だけでなく経済学と法学と合わせて商業教育の中核とした。また、現在の大学に相当する専攻部を設置。国内外から専門家・実務家を招聘して商業教育の充実を図ると共に、若手を海外に留学させて人材の育成を図った。その際の留学者の中には、後に商学を権威ある学問へと昇華させた福田徳三、佐野善作、関一、志田ナ太郎、津村秀松、神田乃武らがいる。津村秀松は1904年に小山の娘・久子と結婚し、後に実業界に進出し、大阪鉄工所(現日立造船)で社長を務める。また、高等商業教育における外国語の重要性を説き、東京高等商業学校の附属機関として外国語学校を新設、現在の東京外国語大学の前身となる。
東京高等商業学校時代(1895年-1898年)