小山ちれ
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小山ちれ
基本情報
よみがなこやま ちれ
ラテン語表記Chire Koyama, He Zhili
出生名何智麗
生年月日 (1964-09-30) 1964年9月30日(56歳)
国籍 中華人民共和国 日本
出身地上海市
居住池田市
性別女性
選手情報
世界ランキング最高1位
段級位6段
利き腕
グリップシェークハンド
フォア面ラバー裏ソフト
バック面ラバー裏ソフト
戦型前陣速攻型
経歴
学歴上海体育学院専門学校
所属歴池田泉州銀行
ITTFワールドツアー戦歴
引退年2001
国内戦歴


全日本選手権 女子シングルス 1992-1997,1999,2000

ジャパントップ12 1996-1998,2001

 獲得メダル

女子卓球
中華人民共和国 日本
世界卓球選手権
金1985 イェテボリ団体
金1987 ニューデリーシングルス
銅1987 ニューデリーダブルス
アジア卓球選手権
金1984 イスラマバードシングルス
金1984 イスラマバード団体
銀1984 イスラマバード混合ダブルス
金1986 瀋陽シングルス
金1986 瀋陽ダブルス
金1986 瀋陽団体
金1988 新潟シングルス
銅1988 新潟ダブルス
金1996 シンガポールシングルス
銅1996 シンガポールダブルス
銅1998 大阪シングルス
アジア大会卓球競技
1986 ソウルシングルス
1986 ソウルダブルス
1986 ソウル団体
1994 広島シングルス
1994 広島団体


■テンプレート ■プロジェクト:卓球 ■選手一覧

小山ちれ(こやま ちれ、1964年9月30日 - )は、中国出身日本人の元卓球選手。中華人民共和国上海市生まれ。中国名は何智麗(か ちれい、He Zhili, 何智?)。前陣速攻型ITTF世界ランキング最高位は1位。段級位は6段。中国代表として1987年世界選手権シングルス優勝などをしたが、何智麗事件を起こし引退。その後1989年に日本人男性と結婚、来日、選手として復帰し、池田泉州銀行に所属。1992年には日本に帰化し、全日本選手権を史上最多の女子シングルス8回優勝。日本代表として1994年アジア大会シングルス、1996年アジア卓球選手権シングルス優勝などの成績を残した。目次

1 主な戦績

2 経歴

3 プレースタイル

4 何智麗事件

5 福原愛へのコメント

6 脚注

7 外部リンク

主な戦績

1985年 - 世界卓球選手権イエテボリ大会女子団体優勝

1987年 - 世界卓球選手権ニューデリー大会女子単優勝

1992年 - 全日本卓球選手権大会女子単優勝

1993年 - 世界卓球選手権イエテボリ大会女子単ベスト16、全日本卓球選手権大会女子単優勝

1994年 - 広島アジア大会女子単優勝、全日本卓球選手権大会女子単優勝

1995年 - 全日本卓球選手権大会女子単優勝

1996年 - アトランタオリンピック女子単5位、全日本卓球選手権大会女子単優勝

1997年 - 全日本卓球選手権大会女子単優勝

1999年 - 世界卓球選手権アイントホーフェン大会女子単ベスト16、全日本卓球選手権大会女子単優勝

2000年 - シドニーオリンピック女子単5位、プロツアー・ザグレブオープン優勝、全日本卓球選手権大会女子単優勝

2003年 - 第37回全日本社会人選手権大会女子単優勝(8回目)

経歴

上海体育学院専門学校を卒業、1987年、中国選手として世界選手権優勝(下記「何智麗事件」参照)。1988年、世界ランキング1位であったにもかかわらずソウルオリンピック中国代表から漏れ[1]、現役を引退。

1989年池田銀行卓球部の日本人コーチ、小山英之と結婚して来日し、大阪府池田市へ移住。その後に現役へ復帰して夫の指導を受け、1992年10月に日本に帰化して日本国籍を取得し、同年の全日本卓球選手権大会で女子シングルスに初優勝、以来1997年までの6連覇を含む8度の優勝を飾る。1994年の広島アジア大会において、1992年バルセロナオリンピック女子シングルス金メダリストで当時世界ランキング1位のケ亞萍を破って優勝[2]、中国卓球界に衝撃を与えた。1996年アトランタオリンピック2000年シドニーオリンピックでは女子卓球日本代表となり、両大会とも準々決勝まで進出して敗退。その間、1997年には夫との離婚調停を申し立て、2000年に成立したが、その後も池田市に在住。2001年、国際大会から引退。

その後も池田銀行所属の実業団選手として日本リーグでの活動を続けたが、2006年に池田銀行が卓球部を廃部すると所属チームを失った。小山は同銀行(2010年に合併で池田泉州銀行へ変更)に残り、現在は同銀行のシンクタンク・地域貢献活動を行う(株)自然総研のイベント講座で年に数回行われる卓球教室を指導している ⇒[1]
プレースタイル

中国代表の頃は、ドライブを多用したパワフルな攻撃が目立った。日本に帰化してからは、一転して前陣でブロックを多用したラリー中心の戦術に変えた。そして、隙あらばカウンターを放つ、体力を大きく消耗させないスタイルになった。
何智麗事件

1987年の世界卓球選手権ニューデリー大会の準決勝は同じ中国のカットマン、管建華との対決となった。この試合では中国の上層部から管建華を勝たせるようにと指令が出ていたが彼女はこれを無視して勝利、優勝を果たした。かつて管建華の指導者だった荘則棟によれば「管建華は勝つ指令を信じたまま心の準備もなく敗れてしまった」と述べている[3]
福原愛へのコメント

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出典検索?: "小山ちれ" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2017年6月)


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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