小宮山悟
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小宮山 悟早稲田大学 硬式野球部 監督
二度目のロッテ時代の2009年8月16日
四日市市霞ヶ浦第一野球場にて登板中
基本情報
国籍 日本
出身地千葉県柏市
生年月日 (1965-09-15) 1965年9月15日(58歳)
身長
体重183 cm
88 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1989年 ドラフト1位
初出場NPB / 1990年4月12日
MLB / 2002年4月4日
最終出場NPB / 2009年10月6日(引退試合)
MLB / 2002年9月11日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


芝浦工業大学柏高等学校

早稲田大学

ロッテオリオンズ
千葉ロッテマリーンズ
(1990 - 1999)

横浜ベイスターズ (2000 - 2001)

ニューヨーク・メッツ (2002)

千葉ロッテマリーンズ (2004 - 2009)

監督歴


早稲田大学

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小宮山 悟(こみやま さとる、 1965年9月15日 - )は、千葉県柏市出身の元プロ野球選手投手)、野球解説者野球評論家早稲田大学野球部監督。日本ソックモンキー有限責任事業組合理事、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)理事(非常勤)。

制球力が非常に高いことから「投げる精密機械」、「ミスターコントロール」などと呼ばれた[1]。風避けのアイウェアと独特のセットポジションが特徴。

上記のようにJリーグの理事を務めたりするなど、サッカー好きであり、柏レイソルサポーターとしても知られる。
経歴
プロ入り前

柏市立柏第四中学校から芝浦工業大学柏高校へ進学。その頃、併願した千葉県立柏南高等学校には不合格となった。

高校時代にテレビで観た東京六大学野球に憧れ、高校の教員から早稲田大学向きだと言われたことで同校を志望。芝工大柏高校卒業後、代々木ゼミナールで2年間浪人生活を送る。浪人中は100m先の自動販売機にも原動機付自転車で行ったり、代ゼミへは定期券で通っていたことから、途中下車した街を散策するなどしていた。

早稲田大学教育学部教育学科体育学専修に入学し、野球部に入部。浪人を経験しながら1年からベンチ入り、2年の秋からエースの座に就く。3年の時に監督となった石井連藏の厳しい指導が、野球と自分自身を見つめ直す大きなきっかけになったといい[2]、石井監督を人生の師であり神様のような存在と語っている[3]慶應義塾大学大森剛との対決は早慶戦の華と呼ばれた。大森は、3年の春にはリーグ打率の更新、秋には2シーズン連続首位打者が期待されていたが、そのいずれも小宮山によって阻止されている。その秋の早慶戦ではチームの勝利優先のため、9回裏に大森を敬遠して勝利する。この試合は4年生のためにも絶対に勝つと誓ったマウンドであり、小宮山は敬遠をするつもりだったが、4年生が勝負を求めてくれたことに思わず涙を流した。小宮山は勝利のために嗚咽しながらも敬遠を選択するが、この出来事は慶大応援団の野次に涙を流したと、事実とは違う報道をされた[2]

4年次には主将を務めている。大学4年間で通算52試合に登板し20勝10敗、防御率1.85、165奪三振。なお早稲田では教職課程を取り、教員免許を持っている[4]

1989年ドラフト会議ロッテオリオンズ(監督:金田正一)から1位指名を受けて入団。
ロッテ時代前期 (1990-1999)

プロ1年目の1990年は先発・リリーフでフル回転し、9月度の月間MVPを受賞。勝ち星は6勝ながら防御率はリーグ4位の3.27、チーム最多先発登板と最多投球回数を達成。チーム事情もあり、すぐにエース格となった[2]。また、ルーキーながら日米野球の代表選手に選ばれ、後にチームメイトになるフリオ・フランコと対戦する。この年は村田兆治の引退年でもあり、同じチームで一年間様々なことを学ばせてもらい、また村田のトレーニング量の多さに驚愕したと語っている。小宮山が過去のことを振り返る際にはほぼ必ずといっていいほど、村田から受けた影響の大きさを話している。

1991年は千葉移転前のロッテ球団(オリオンズ)として最後の開幕投手を務め、シーズン初の二桁10勝を挙げる。一方で負け数も16敗リーグ最多敗戦を記録。以降、1994年まで4年連続で開幕投手を務める。また、初のオールスターゲーム出場を果たす。

1992年にロッテ球団は本拠地を川崎球場神奈川県川崎市)から千葉マリンスタジアム千葉県千葉市)へ移転し、球団名も「千葉ロッテマリーンズ」に改称。新監督として八木沢荘六が就任した。同シーズン、小宮山は8勝15敗と前年同様負け数が二桁に達してしまい、パ・リーグでは1972年から1973年東尾修以来となる2年連続リーグ最多敗戦投手となった(この年以降パ・リーグでは連続最多敗戦投手は2017年現在現れていない)。

1993年開幕戦の完投勝利を皮切りに、開幕から6試合連続完投勝利というプロ野球史上初の記録を達成[5]。4月度の月間MVPを受賞。しかし、その後は6連敗を喫して、シーズン成績は自己最多の12勝を挙げたが14敗で負け越しに終わる。

1994年は2完封するものの、勤続疲労による不調と右肘痛に悩まされ、プロ4年間で最悪の成績に終わる。早大の大先輩である広岡達朗GMから叱咤激励された。

1995年は前年とは打って変わって、プロ通算でも最高の勝率を記録し、この年のロッテ三本柱の一角を担い1990年代唯一のAクラス入りに貢献する。この年はボビー・バレンタイン監督の下でメジャー流の調整を学んだことが好成績に繋がり[6]、投球の面白さや深さをあらためて感じたという[2]

江尻亮監督が就任した1996年はシーズン通して先発は担ったものの、8勝13敗と負け越し、防御率は4.54に終わる。シーズンオフの契約更改では、チーム日本人初の複数年契約を結ぶ[7]

近藤昭仁監督が就任した1997年は3本柱だった伊良部秀輝エリック・ヒルマンの退団もあり、3年ぶりに開幕投手を務め、球団では村田兆治以来2人目となる無四球完封で開幕戦を勝利する[8]。8月に3勝0敗、防御率0.77の成績で月間MVPを受賞するなど活躍し、同年はキャリアハイの防御率2.49で最優秀防御率のタイトルを獲得。10月6日の対オリックス・ブルーウェーブ戦の登板を生涯のベストピッチとしており、全ての球が寸分違わず狙ったところに行き、8回を無四球無失点(9回は抑えの河本育之に交代)、被安打2で抑えた[2]


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