小室ブーム
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1999年10月20日内閣総理大臣官邸にて内閣総理大臣小渕恵三(右)と2000年7月11日、小室哲哉(左)とファミリーの1人である安室奈美恵(右)(内閣総理大臣官邸にて。中央は内閣総理大臣森喜朗

小室ファミリー(こむろファミリー)とは、音楽プロデューサー小室哲哉(Tetsuya Komuro、TK)を中心にした芸能人ファミリー。同人がプロデュースまたは楽曲提供した歌手たちを呼ぶ総称であり、TKファミリーとも呼ばれる。
概要

ファミリー入りするための定義はないが、小室プロデュースの曲が代表曲になると、たとえ1曲の提供であってもファミリーだと世間的に認知されることが多い。また、小室の右腕とされる久保こーじのプロデュースも含まれ、小室ファミリーと定義される歌手は100組を軽く超えるとされる。

ただし篠原涼子TPD時代を含む)やtrfをはじめ、小室がプロデュースするのはおおむね2年から3年程度であり、globeのように10年も続くというのは稀有である。これは契約期間が最初から定まっているためであり、「いずれは小室の手から離れてアーティストを送り出す」という意味合いもある(「#衰退期」の項も参照)。

またビーイング所属アーティスト同様、dosやTrue Kiss Destinationなど、解散宣言が出されないまま自然消滅したグループもある。

1980年代に世界的人気を誇る歌手を多数輩出した、ストック・エイトキン・ウォーターマン(以下、SAW)のプロデュース手法を参考にしている。実際に、1988年に小室自身が海外でSAWと共同作業を行った経験があり、日本と海外の音楽市場の間の絶望的なまでの格差を思い知らされると共に、スタジオ・ワークの面白さにも目覚めている。
小室ブーム

1994年から1997年の3年弱、小室哲哉のプロデュース楽曲がオリコンチャートの上位を埋め尽くす現象が発生した。メディアはこれを小室ブームと評した。
初期

1991年頃、松浦勝人と対面した際に松浦からTMの楽曲をユーロビート調にアレンジしたリミックスアルバム「TMN SONG MEETS DISCO STYLE」の企画を持ちかけられた時に「TMの作品が初回プレスは売り切っても、バックオーダーが発生しないから楽曲がファン以外に広がらず、カラオケでもディスコでも渡辺美里さんの曲しかかからない」という危惧・諦めからTMの固定ファンを「15万個の消しゴム」と例えるようになり、当時新興で軌道に乗り始めていたエイベックスからの誘いには最初は及び腰だった。だが松浦の「だったらTMの楽曲がかからないような所をターゲットにすればいいじゃないですか。絶対格好悪くならないようにしますから」「ヨーロッパでは一つの音で、ダンスフロアがぶわっと盛り上がる。そういう作り方の音楽も面白いですよ」と勧められたこともあり、1992年から自分のベースの一つであるダンス・ミュージックが「どうしたらそのジャンルが大好きな固定ファンから不特定多数の大衆に広がるか」をDJとして全国を回り音色・出演メンバーに対する若者の反応を確かめ、オーディションの審査員を務め、地道にスタジオで作曲活動をする等の試行錯誤をしていた[1][2][3][4]。ダンス・ミュージックを主軸に専念した理由として、「カラオケとディスコが流行りだしていて、ディスコの後にカラオケに行く人が多かった。でも、歌う曲はサザンオールスターズ松任谷由実さん・ZARDのような熱唱しなければいけない型ばかりで、ただタンバリンを持ってメロディに合わせて踊るだけでは無理がある曲が多かった。だから、歌うか・踊るかどちらに行っても楽しめる曲がもっとあってもいい。僕から見るとそこがマーケットとしての空白だった」と語っている[5]。しかし、1970年代 - 1980年代のシンセサイザーだとどうしても難しいプログラミングができないため、やむを得ず「メロディーとリズムが戻ってくる」パターンを作って繰り返さなければならず「流れが流暢でドラマチックで起承転結のある日本の歌謡曲」「尾崎豊さんのような涙・汗・エモーショナルな楽曲が名曲」と若者に受け入れられていた世間に対して、どうやったら反復が多くて無機質なダンス・ミュージックにロック・ミュージックに対抗できるパワーを持たせるか、音楽業界に入り込むかを考えていた[6]

しかし、小室がavex traxとライセンス契約を結んだ際、EPIC内では「他社のアーティストをプロデュースするなんて契約違反だ!」「法的には何の問題もないが義理としてはどうか」「EPICはロックのレーベルなのに、ダンスなんて軽薄だ」と議論が巻き起こった。これは当時の音楽業界では「音楽プロデューサーはレコード会社の社員・元アーティストの専属契約」であることが多かったためといわれる。その問題に対応するためにtrfデビューの際、TMのメンバー・ソロミュージシャンとしての契約は引き続きEPICと結びながら、音楽プロデューサーとしてはフリーランスであるために、個人事務所「OPERA GIG(後にTK stateに改名)」を設立し、小室は音楽に関する全てのコンセプトを立てた。それをスムーズに実行させるために、丸山茂雄は「アーティスト主導・レパートリーの管理に特化した芸能事務所」をコンセプトに「アンティノス・マネジメント(後のブルーワンミュージック→現ソニー・ミュージックアーティスツ)」を設立、小室は第一号契約者となった[注釈 1][8]。それと同時に丸山が小室の個人事務所とフリー契約を結び、avexとの橋渡し役を務めた[9][10]。形態として「avexに小室を貸している」[11]「演奏権は確かにEPIC側が持っているが、打ち込まれたデータの再生は演奏ではない」[10]と丸山が体裁を保障することで契約問題を乗り越え、その見返りとして本来小室に支払われる活動収入・印税の内「原盤権で生じる印税」「実演家としてのアーティスト印税」を丸山が[10]、「エイベックスとの仕事で生じた小室の収入の数%」をEPICが頂く[11]形をとり[注釈 2]、「作詞・作曲・編曲・プロデュースを中心とした売上中1?5%の著作権印税」[13][14]「音楽プロデューサーとしての活動で生じる収入」[注釈 3]「テレビ・イベント等への出演料」[12]は小室の取り分になった。

1993年に音楽プロデューサーに徹する決意を周囲に表明する。東京・のオフィスビルのフロアを借り切り、個人用のスタジオを3軒建て、ミキシング専任のスタッフをロサンゼルスとロンドンに抱え、配送スタッフを週2日定期的に行き来させる等、いつ誰とでも楽曲制作ができて、スムーズに海を越える態勢を整え[16]、「1993年はスタジオで音作りに明け暮れた」と述懐する程に、楽曲のストックを増やす制作活動に徹した[17][注釈 4]。その時の目標となったのが、ジ・オーブの作品群・活動スタイルであり[注釈 5]、「TM・trfに共通する僕のすごくポップな部分が生まれる切っ掛けになった」と話している[20]。その時の状況を「世の中は既に仕事を分担してシステム化していくのに、全てを自分一人で決めていくなんて時代に逆行しているのではないか、やっていることは家内制手工業と同じだ」と迷いを見せたが[21]、反面作詞・作曲・編曲の内、小室の担当する作業がどれか1つだけだと制作に行き詰まり、敢えて3つ兼ねれば「メロディとコード進行が同じでも、音色と作詞次第で全く別の曲にできる」「作詞に行き詰ったときにコード進行をマイナーからメジャーにすることで全然違うイメージにする」「アレンジをダンスミュージックからロックに簡単に様変わりできる」等仕事の組み合わせが3つ以上あった方がかえって仕事がやりやすいことに気付き、「大量のアイディアのライブラリーになるし、アーティストのキャラクターの色分けにもつながる」と語っている[22]

そうした要領で創作活動を行いながら企画書を練っていく内に、「TMでできることはもうないんじゃないか」「女性ボーカリストのための曲をプロデュース・ワーク的な部分で作りたい」とその内容は小室を含むTMの3人では到底収めることができるものではなくなってしまったために1994年、TMの活動停止を決意する。その際のキーワードとして「解散」ではなく「終了」を全面的に押し出したのはその間際になってもなおTMの次のイメージと可能性[注釈 6]を見つけた自分に気付き、それを尊重するために「飽くまで第1期プロジェクト終了」「ニュース・ドキュメンタリー・モニュメントとしての『終了』という言葉のプロデュース」[25] というコンセプトから来たものである。


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