小塚原刑場
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小塚原刑場(こづかはらけいじょう、こづかっぱらけいじょう)は、江戸時代から明治初期にかけて存在した刑場である。

小塚原の地名は古塚原、または骨ヶ原(こつがはら)ともいう[1][2]地図
概要
歴史小塚原刑場の首切地蔵

小塚原刑場は、慶安4年(1651年)に千住大橋南側の小塚原町(こづかはらまち)に創設された。現在の東京都荒川区南千住2丁目に相当する。小塚原町は万治3年(1660年)に千住宿に加えられた。江戸時代の刑場は北に小塚原刑場、南に東海道沿いの鈴ヶ森刑場(東京都品川区南大井)があり、二大刑場といわれた。刑場の広さは間口60(108メートル)、奥行30間余(54メートル)程だった。

小塚原の仕置場では磔刑火刑梟首(獄門)が執行された。小塚原刑場では腑分けも行われた。腑分けが行われたのは小伝馬町牢屋敷日本橋小伝馬町)と小塚原刑場だったという。

死体は、そのまま野ざらしにされたり[3]、丁寧に埋葬せずに土を被せるだけで、夏になると周囲に臭気が充満し、野犬イタチの類が食い散らかして地獄のような有様だったという[4]。また、山田浅右衛門による使われる刀剣の試験場(当時は「おためし場」とよばれた)だった[5]

寛文9年(1699年)には、下谷浅草の各宗派寺院内にあった五三昧(火葬寺)19の寺が小塚原に移転し、19世紀初頭には、江戸の北の一大火葬埋葬場になった。

寛保元年(1741年)には、首切地蔵(高さ3メートルほど)が建てられた。

明治6年(1873年)7月には、欧米と対等の人権基準を設ける必要に迫られた新政府によって廃止された。小塚原刑場では、創設から廃止までの間に合計で20万人以上の罪人の死刑が執行されたという[4]
死者の埋葬と供養

寛文7年(1667年)に本所回向院の住職である弟誉義観(ていよぎかん)が、死者の埋葬と供養を行うため、小塚原刑場隣接地に常行堂を創建した。これが後の南千住回向院になった。

文政5年(1822年)、南部藩の臣・相馬大作(下斗米秀之進)が処刑されて以降、国事犯の刑死者はここに埋葬された。安政の大獄で処刑された橋本左内吉田松陰頼三樹三郎等も一時埋葬された。
『解体新書』の翻訳

明和8年(1771年)にターヘル・アナトミアを手に入れた蘭学者の杉田玄白中川淳庵前野良沢らが解剖図の正確性を確かめるために、小塚原刑場で刑死者の解剖(腑分け/ふわけ)に立ち合っており、1922年大正11年)にこのことを記念して回向院に寄贈された観臓記念碑がある。「試し斬り」も参照
移転

本町四丁目辺り⇒浅草鳥越橋辺り⇒浅草聖天町西方寺向かい⇒小塚原(中村町)(1697年 - 1873年
跡地延命寺

回向院は明治に入り、常磐線を建設する際線路が敷地中央を通過したため分断された。常磐線の北側が回向院、南側が延命寺として独立した。刑場跡は現在の南千住駅西側、常磐線と東京メトロ日比谷線間の延命寺内に位置する。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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