.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}小堺(こさかい) 一機(かずき)
本名小堺 一機
ニックネームムックン
生年月日 (1956-01-03) 1956年1月3日(68歳)
出身地 日本・千葉県市川市
血液型A型
身長165 cm(公称)
言語日本語
方言共通語、関東方言
最終学歴専修大学経営学部卒業
出身勝アカデミー第1期生
コンビ名コサキン(正式なコンビではない)
相方関根勤
芸風コント、ものまね
事務所浅井企画
活動時期1977年 -
同期ルー大柴
所ジョージ
村上ショージ
ラサール石井
松本竜助
現在の代表番組ごごウタ
小堺一機のおうちで?CINEMA?
過去の代表番組ザ・トップテン
欽ちゃんのどこまでやるの!?
ライオンのいただきます
ライオンのごきげんよう
他の活動司会者、俳優、歌手
配偶者既婚
親族小堺翔太(長男)
娘(2人)
受賞歴
1977年:ぎんざNOW! 素人コメディアン道場 優勝
1985年:日本放送演芸大賞 最優秀ホープ賞
1986年:日本放送演芸大賞 優秀賞
1987年:日本放送演芸大賞 敢闘賞
1988年:浅草芸能大賞 新人賞
2006年:日本映画批評家大賞 舞台ミュージカル大賞
テンプレートを表示
小堺 一機(こさかい かずき、1956年(昭和31年)1月3日[1] - )は、日本のお笑いタレント、コメディアン、司会者、俳優。
千葉県市川市出身[1]。浅井企画所属。 父・秀男と母・淑子の間に生まれ[2]、幼少時代を市川市真間で過ごした。その後、寿司職人であった父の職場移動に伴い、小学2年生の時に東京・浅草に移り、そこで少年時代を過ごす[3]。ここで映画への興味を深め、またストリップ劇場など大人の世界にも触れた。さらに東京放送児童合唱団(14期。現・NHK東京児童合唱団)に所属するなど、華やかな世界への興味を抱くようになった。その後小学4年生の時に文京区目白台、小学5年生の時に新宿区早稲田鶴巻町に転居[4]。幼少の頃はデザイナーになることに憧れており、東京都立工芸高等学校への進学を志望していたが、小学校の健康診断で赤緑色弱と診断されたために断念せざるを得なかったという[5]。また、小学校(文京区立関口台町小学校[6])時代の同級生の一人にギタリストの土方隆行がいる。 新宿区立牛込第二中学校[7]、東京都立市ヶ谷商業高等学校、研数学館を経て、専修大学に合格した[4]。 専修大学在学中の1977年(昭和52年)、テレビ番組『ぎんざNOW!』(TBS)の「素人コメディアン道場」で第17代チャンピオンとなり、芸能界入りした。大学卒業後、勝新太郎が主宰する「勝アカデミー」に第1期生として入校し、翌年卒業した。勝アカデミーでは岸田森らに師事し、同期生にはルー大柴がいた。 その後浅井企画と契約し、本格的な芸能活動を始めた。『ぎんざNOW!』初代チャンピオンであり、浅井企画の先輩で長年の親友でもある関根勤(旧:ラビット関根)とコンビ「コサキン」(当初は『コサラビ』)を組み、ライブハウスの舞台に立ち修行を積む一方、『ザ・トップテン』(日本テレビ)の中継リポーター[注釈 1]として出演したのに続き、萩本欽一の看板番組『欽ちゃんのどこまでやるの!?』(テレビ朝日)の「クロ子とグレ子」で関根勤と共に人気を獲得。1981年、関根と共にTBSラジオ『夜はともだち コサラビ絶好調!』のパーソナリティを務めた。その後この『コサキン』シリーズは、放送時間や番組名を変えながらも継続され、深夜番組としては驚異的ともいえる2009年3月まで27年半続いた長寿番組となった。 活躍が認められ、1984年(昭和59年)10月1日にフジテレビのテレビ番組『ライオンのいただきます』(1989年10月より『-いただきますII』に改題)の司会に抜擢、その後、後継番組として1991年(平成3年)1月7日から『ライオンのごきげんよう』(2016年3月31日放送終了)が開始、以来お昼の顔となっていた。 1980年代から90年代にかけては俳優としてもテレビドラマ出演を多くこなした。『いただきます』『ごきげんよう』で司会者のイメージを確立しているが、原点となるものまね芸も続けており、『コサキン』シリーズで新ネタを卸し続けたほか、2010年代以降も『とんねるずのみなさんのおかげでした』で若手芸人に混じってものまねを披露することもあった。 2004年(平成16年)7月、首の腫瘤の摘出手術のためにレギュラー番組を一時降板した。摘出の結果一部に癌化した細胞が検出され、後に自身が癌に罹患していることを公表した[8]。テレビ番組には同年8月30日の『ごきげんよう』の生放送で復帰したが、その際には、髪を白く染めるという意表をついた登場で注目を集めた。それ以後は金色の頭髪がトレードマークとなっていたが、現在は白髪であると本人が語っている。なお、従前より「髪の毛の後退」は小堺自身のネタであった。癌になったことをきっかけに禁煙した。
来歴
生い立ち
芸能界入り
「お昼の顔」
がん手術・休業
人物
幼少時代に、NHK専属の「東京放送児童合唱団」に所属し、同局公開番組『歌はともだち』等にも出演。タレントになった後も、レコード・CDも数枚リリースするほか、ドラマ・舞台・ミュージカル・CM等、幅広く活動している。萩本欽一曰く、「小堺は『お笑い芸人』というより『エンターテイナー』」。タップダンスも得意である。また、デビューのきっかけとなったモノマネ芸(萩本欽一・田中邦衛・田村正和など)でも知られている。
人物評は「人畜無害」「お昼の顔」「当たり障りの無い司会者」「サイコロの達人」。
Size:155 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
担当:undef