小坪
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この項目では、地名について説明しています。その他の用法については「小坪 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
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小坪
町丁
小坪漁港付近
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日本
都道府県 神奈川
市町村 逗子市

人口情報(2021年(令和3年)10月1日現在[1]
 人口7,749 人
 世帯数3,516 世帯

面積[2]
 1.59 km²
人口密度4873.58 人/km²
郵便番号249-0008[3]
市外局番0467(藤沢MA)(一部のみ)
046(横須賀MA)(上記以外)[4]
ナンバープレート横浜
ウィキポータル 日本の町・字
ウィキポータル 神奈川県
ウィキプロジェクト 日本の町・字
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小坪(こつぼ)は、神奈川県逗子市町名。面積は1.59平方キロメートル(逗子市全域17.34平方キロメートルの約9%)[2]。現行行政地名は小坪一丁目から小坪七丁目。住居表示実施済み区域。
地理

逗子市市西端に位置し、西は鎌倉市材木座、北は鎌倉市大町、北東は逗子市久木、南東は逗子市新宿に接し、南西は相模湾に面する。海岸は大崎、飯島崎の2つの小岬で逗子湾(逗子海岸)とも鎌倉湾(材木座海岸)とも隔てられた小湾・小坪湾となっている。もともとの村はこの小湾と、そこから奥に深く切れ込んだ谷戸で、鎌倉とも、現在の逗子市中心部とも尾根筋によって隔てられた土地であった。

幹線道路としては町域北端を神奈川県道311号鎌倉葉山線(旧国道134号線)が鎌倉から名越隧道を通って入り、小坪隧道を通って逗子市久木へ抜ける。また町域中央部東側には近代に大きな切り通しが設けられ、逗子市中心部へと通じる。海岸近くは、飯島崎の小坪海岸トンネル、および飯島崎上の姥子台を越える道の2本によって鎌倉材木座と連絡している。また海岸近くを国道134号の新道(旧湘南道路)が通るが、小坪町内はトンネルと切通し、高架で通過するのみで、通常は車両通行止めのランプ一カ所と、一部私有地への出入口を除き、小坪町内とは接続していない。

海岸に小坪漁港逗子マリーナがあり、町域北端には名越切通し(国の史跡)や、心霊スポットとしてしばしば取り上げられる小坪隧道(名越隧道)がある。
住宅地

小坪湾に面した漁港周辺が古くからの村の中心だが、戦後になり、小坪湾から切れ込む谷戸を囲む山の上が大規模に開発され、新興住宅地となった。さらには小坪湾北西側が埋め立てられ、マンションの立ち並ぶ逗子マリーナ地区となっている。
地価

住宅地の地価は、2023年令和5年)1月1日公示地価によれば、小坪1-17-10の地点で14万1000円/m2となっている[5]
歴史

町域南部の披露山(山頂を含む東側は、現在、逗子市新宿に属する)から、縄文時代弥生時代の土器片、遺跡などが発掘されている。

律令時代に入ると、畿内から常陸国に至る古東海道が開かれた。足柄峠から相模国に入った古東海道は、鎌倉から姥子台を越えて小坪に入り、さらに披露山を越えて現在の逗子市中心部を通り、三浦半島を横断して横須賀市の走水から海路で房総半島に渡ったものと考えられている。ただし、律令時代の官道は後の街道より広く直線的に建設されたと考えられており、旧小坪路と称される、現在も所々に残る細く曲がりくねった山道が古東海道の一部であったかどうかは異論が残る。

下って治承4年(1180年)の源頼朝の挙兵に際し、当時三浦半島に勢力を持っていた三浦氏三浦義明義澄親子は源氏方に付くが、緒戦の石橋山の戦いには大雨のために合流できず、三浦に引き返すところ、平家方の畠山重忠と遭遇し、8月24日、この地で合戦となった。畠山勢が由比ヶ浜に、三浦勢が小坪峠に陣を敷いたこの合戦を、小坪合戦、または小壺坂合戦と称する。

一方、小坪北端の、現在の県道311号鎌倉葉山線上の尾根を越える道は名越坂(名越路)と呼ばれ、治承元年(1177年)、当時、伊豆国蛭ヶ小島に流されていた源頼朝が、三浦氏を訪ねる際にも通ったと言われる。もともとは通行の難所であるところから「難越」と呼ばれたことが地名の由来と言われる名越路には、鎌倉時代に三浦半島方面への交通路として、後に鎌倉七口の一つに数えられる名越切通が尾根上に開かれた。

鎌倉時代には、『吾妻鏡』中に、鎌倉の四境として東六浦、南小壺、西稲村、北山内と記されており、小坪は鎌倉の南境とされていたことが判る[6]。鎌倉の外れの小村として、幕府を開く前の寿永元年(1182年)には、一時、頼朝が正室の政子に隠れて、愛妾の亀の前を住まわせていたこともあったという。

貞永元年(1232年)には、飯島崎鎌倉側に貿易港である和賀江島が築港され、一方で小坪は鎌倉に魚介類を供給する漁港として発展することになる。小坪には伊勢・志摩の商人や海女も移住し、その名残は旧小坪村の中心であった湾沿いの4地区(南町・伊勢町・中里・西町)の地名の中にもうかがえる。1250年頃には魚介類を扱う魚座(いおざ)が開設されていたとされ、以後、江戸から近代に至るまで、漁港として栄えた。天皇の祭儀として現在毎年11月23日に行われている新嘗祭には、いつ頃からは定かではないが、小坪で採取される海松(ミル)が献上されている。

また、小坪湾と逗子海岸を隔てる大崎上の披露山(ひろやま)は、鎌倉時代、将軍への献上物を披露する場所であったとも、あるいはそれを担当する役人の在所であったとも言われる。

戦国時代初期には、伊豆小田原を本拠に相模国制圧に乗り出した北条早雲が、鎌倉時代初期までの三浦氏の傍流で相模国の豪族となっていた相模三浦氏を攻め、永正9年(1512年)8月、当主の三浦義同(道寸)は本拠の岡崎城(現伊勢原市)を落とされた後、小坪の住吉城に籠もる。しかし住吉城も早々に落とされ、三浦義同は新井城(または三崎城、現三浦市)に逃れ、3年の篭城戦の後に滅ぼされた。

住吉城址は逗子マリーナ背後の飯島崎の山上にあり、現在は住吉神社となって、砦の遺構と思われるものは残っていない。相模三浦氏の砦以前に、鎌倉幕府により鎌倉と三浦半島との間の防衛拠点として築かれていたと言われ、また、先述の治承年間の小坪合戦時に三浦勢が陣を敷いたのもこの近辺と考えられることから、鎌倉時代以前から既に砦の原型は存在していた可能性もある。

天正18年(1590年)に後北条氏が滅亡すると徳川氏所領となり、江戸時代末期には天領幕府直轄地)となった。


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