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出典検索?: "小坂誠"
小坂 誠2018年3月2日 ロッテ浦和球場
基本情報
国籍 日本
出身地宮城県亘理郡山元町
生年月日 (1973-07-02) 1973年7月2日(50歳)
身長
体重167 cm
63 kg
選手情報
投球・打席右投左打
ポジション遊撃手、二塁手、三塁手
プロ入り1996年 ドラフト5位
初出場1997年4月5日
最終出場2010年8月12日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
宮城県柴田高等学校
JR東日本東北
千葉ロッテマリーンズ (1997 - 2005)
読売ジャイアンツ (2006 - 2008)
東北楽天ゴールデンイーグルス (2009 - 2010)
コーチ歴
東北楽天ゴールデンイーグルス (2011 - 2013)
北海道日本ハムファイターズ (2014 - 2016)
読売ジャイアンツ (2017)
千葉ロッテマリーンズ (2018 - 2023)
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小坂 誠(こさか まこと、1973年7月2日 - )は、宮城県亘理郡山元町出身の元プロ野球選手(内野手)、コーチ。右投左打。 少年野球時代はチームの後輩に小野淳一。山元町立山下中学校卒業。宮城県柴田高等学校では甲子園出場はなく、高校卒業後は社会人野球のJR東日本東北硬式野球部に5年間在籍。 1995年には都市対抗野球にチーム53年ぶりの出場、翌年も連続出場して1番を打った[1]。ヤクルトスワローズのスカウトを務めていた佐藤孝夫(白石市出身で仙台鉄道管理局から国鉄スワローズに入団)がその才能を見出して獲得するよう推薦したが、低身長を理由に却下された。小坂をあきらめきれない佐藤は千葉ロッテマリーンズのGM広岡達朗(元ヤクルト監督)に「ヤクルトは取らないけれど、背は低いが俊足で守備範囲の広い遊撃手なんだ」と推薦し、実際に小坂を調査した広岡は即座に獲得を決意[2]。1996年度のドラフト会議で5位指名された。背番号は00。 1997年(1年目)の開幕から遊撃手のレギュラーを獲得。3・4月の月間MVPを獲得し、シーズン全試合出場を果たすなど活躍を見せて新人王に選ばれる。盗塁王のタイトルは松井稼頭央が獲得したが、この年に記録した56盗塁はそれまでの新人最多記録である佐藤孝夫の45盗塁を大きく上回る記録であり、現在も破られていない[3]。 1998年から背番号を1に変更。松井稼頭央と並んで43盗塁で盗塁王に輝き(故意のボーク疑惑による盗塁阻止問題も発生。詳しくはそちらの項を参照)、プロ野球史上初の「40盗塁・40犠打」も達成した[3]。 1999年は31盗塁を記録したが、松井稼頭央に1個及ばず盗塁王を逃した。同年は打率.280、出塁率.358を記録してゴールデングラブ賞も初受賞し、以後2001年まで受賞し続ける。1998年に続き2年連続でリーグ最多犠打も記録した。 2000年は33盗塁で自身2度目となる盗塁王を獲得。 2001年には木塚忠助以来プロ野球史上2人目となる新人から5年連続30盗塁を記録し[3]、打撃では打率.262、出塁率.350と復調した。 2002年は開幕早々に右足を骨折し長期離脱。新人から連続30盗塁と連続100安打の記録が5年で止まるが、通算4度目となるリーグ最多三塁打を記録した。 2003年には通算50三塁打を達成し、2年ぶりに100安打以上を記録した。 2004年は腰痛などの故障が長く続き、出場試合数が大幅に減少した。この年からボビー・バレンタイン新監督の統計スタッフの分析により「ゴロヒットよりフライヒットが多い」との指摘を受け、転がす打撃から外野へ飛ばす打撃にスタイルを変える。シーズン途中から眼鏡を使い始め、2007年からコンタクトレンズを試みた時期もあったが、その後、眼鏡とチューインガムがトレードマークとして定着した。 2005年1月1日に結婚。4月22日、通算1000試合出場(401人目)を地元宮城県のフルキャストスタジアム宮城で達成。6月5日、通算250盗塁を達成。以後、西岡剛、堀幸一らと共に二遊間を3人でローテーションするという独特のシステムの下(出場の試合は全て遊撃手)で活躍し、打率.283、出塁率.353、自己最高となる4本塁打を記録。チームの31年ぶりのリーグ優勝と日本一に貢献した。通算4度目となるゴールデングラブ賞も受賞した。12月21日に金銭トレードで読売ジャイアンツへ移籍。 移籍に際して、ロッテで付けていた背番号1が巨人では永久欠番になっていたこともあり、同年に引退した元木大介の2を引き継いだ。 2006年の巨人は遊撃二岡智宏、二塁仁志敏久がいたが、小坂は開幕二塁手のスタメンを勝ち取り、この年はほとんど二塁で起用された。同年4月15日の対横浜ベイスターズ5回戦(横浜)で、通算1000安打を達成したものの、打率1割台と極度の不振となり、シーズン終了後には大幅減俸を受け入れ、10月には若手と共にフェニックスリーグに参加した。
経歴
プロ入り前
ロッテ時代
巨人時代巨人時代
(2008年9月13日、横浜スタジアムにて)