「小阪憲司」とは別人です。
日本の政治家小坂 憲次こさか けんじ
文部科学大臣就任に際して公表された肖像
生年月日 (1946-03-12) 1946年3月12日
出生地 日本・長野県長野市
没年月日 (2016-10-21) 2016年10月21日(70歳没)
死没地 日本・東京都新宿区
出身校慶應義塾大学法学部法律学科卒業
前職日本航空従業員
自由民主党総裁秘書
所属政党(自由民主党→)
(新生党→)
(新進党→)
(太陽党→)
(民政党→)
自由民主党(石破派)
称号従三位旭日大綬章
法学士
親族曾祖父・小坂善之助
祖父・小坂順造
父・小坂善太郎[1]
叔父・小坂徳三郎
第7代 文部科学大臣
内閣第3次小泉改造内閣
在任期間2005年10月31日 - 2006年9月26日
参議院議員
選挙区比例区
当選回数1回
在任期間2010年7月26日 - 2016年7月25日
衆議院議員
選挙区(旧長野1区→)
長野1区
当選回数6回
在任期間1990年2月19日 - 2009年7月21日
テンプレートを表示
小坂 憲次(こさか けんじ、1946年〈昭和21年〉3月12日 - 2016年〈平成28年〉10月21日)は、日本の政治家。位階は従三位。
衆議院議員(6期)、参議院議員(1期)、文部科学大臣(第7代)、参議院憲法審査会会長(初代)、自民党参議院幹事長などを歴任した。 1990年代前半は、一貫して羽田孜の側近であった[要出典]。1993年に自民党を離党し、羽田が率いる新生党に入党する[要出典]。その後も羽田に従って新進党、太陽党、民政党と渡り歩いたが、羽田が菅直人元厚生大臣率いる旧民主党への合流を進めたことに反発[要出典]。民主党には合流せず、無所属の期間を経て、自民党に復党した。 2008年自由民主党総裁選挙では石破茂の選挙責任者を務めた[2]。 2009年の第45回衆議院議員総選挙において、自由民主党公認で長野1区より立候補するも、民主党公認候補の篠原孝に及ばず、比例復活も出来ずに落選した[3]。 2010年の第22回参議院議員通常選挙に比例区より立候補し、当選。その後、同党の参議院幹事長も務めた。 2011年4月14日、東日本大震災の復興補正予算が議論される中、復興予算捻出のためのODA削減案に反対する超党派連合のメンバーとして名を連ねる[4][5]。 2011年10月21日、参議院憲法審査会の初会合において行われた会長選出選挙で、江田五月前参議院議長を1票上回る23票を獲得し、会長に就任[要出典]。 2015年11月25日、悪性リンパ腫の治療専念のため第24回参議院議員通常選挙に立候補しないことを明らかにした[6]。政治活動は継続する意向を明らかにしていたが、小坂家から後継候補を擁立しなかったため、帝国議会以来続いた小坂家の国会議員として議席は一先ず終焉を迎えることとなった。 同年10月21日、悪性リンパ腫のため、東京都新宿区の慶應義塾大学病院で死去。70歳没[8][9]。 政府は11月11日の閣議で、従三位に叙するとともに、旭日大綬章を贈ることを決めた[10]。墓所は多磨霊園。
来歴
年表
1946年 長野県生まれ
1961年 東京学芸大学附属世田谷中学校卒業[11]
1964年 慶應義塾高等学校卒業[11]
1968年 慶應義塾大学法学部法律学科卒業、日本航空入社( - 1984年)[12]
1986年 中曽根康弘秘書
1990年2月 衆議院議員初当選
1993年7月 衆議院議員再選
1994年
4月 自由民主党を離党し、同じく長野県選出の羽田孜が率いる新生党に入党
12月 新進党結成に参加
1996年
10月 衆議院議員3選
12月 羽田孜に従って新進党を離党し、太陽党結成に参加
1998年
1月 民政党結成に参加
4月 民政党の民主党合流に参加せず、のちに自民党に復党
1999年10月 小渕第2次改造内閣で郵政政務次官に就任
2000年
4月5日 第1次森内閣で郵政総括政務次官に就任
6月 衆議院議員4選
10月 第2次森内閣の郵政総括政務次官に就任