小園安名
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少佐時代の小園安名。
昭和12年10月頃、上海・公大基地にて
生誕1902年11月1日
鹿児島県川辺郡
死没1960年11月5日
所属組織 大日本帝国海軍
軍歴1923年 - 1945年
最終階級 海軍大佐剥奪
指揮第251海軍航空隊
第302海軍航空隊
戦闘支那事変
太平洋戦争
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小園 安名(こぞの やすな、1902年明治35年)11月1日 - 1960年昭和35年)11月25日)は、日本海軍軍人海軍兵学校第51期卒業。最終階級は海軍大佐剥奪。
生涯

1902年(明治35年)11月1日鹿児島県川辺郡万世町(現・南さつま市)に生まれる。旧制鹿児島県立川辺中学校を経て1920年8月26日に海軍兵学校第51期に入学。同期に樋端久利雄山本祐二三代一就らがいる。1923年7月14日、同校を卒業し、少尉候補生。練習艦「磐手」乗組み。

1926年3月、霞ヶ浦海軍航空隊第14期飛行学生、11月、卒業。空母「赤城」分隊長着任。霞ヶ浦航空隊教官着任。小園に思想的影響を受けた飛行学生の中尉らが五一五事件を起こし、小園も「皇道革新」を主張し五一五事件を支持したことから転勤させられる[1]。大村航空隊分隊長着任。横須賀航空隊分隊長着任。小園は大型機論(戦闘機無用論)を支持していた。若い搭乗員に対して「おい、中攻どころか、いまにアメリカ本土を直接爆撃できる大型機ができるぞ。そうなれば、あんな高い費用がかかる空母なんていらなくなるよ」と声をかけ、空母全廃論まで唱えた[2]。1935年10月、空母龍驤飛行隊長に着任。
日中戦争

1937年、日中戦争がはじまる。第十二航空隊飛行隊長に着任。隊員だった原田要は小園について「とても部下思いの優しい人で、下士官兵も大切にしてくれ、私は非常に尊敬していました。(終戦後の)徹底抗戦も国への想いが人一倍強く、真に純粋な思いからだったと思います。」と語っている[3]

1938年(昭和13年)4月29日の天長節を期して漢口空襲が計画され、総指揮官は先任分隊長の吉富茂馬大尉となる予定だったが[4]、小園少佐は総指揮官として自分も出陣すると司令三木森彦大佐に直訴した。1月以降既に3人の飛行指揮官が戦死していたため、相生高秀大尉は反対していた。小園は三十六歳で肥満の為一人では座席に乗り込めず整備員に押し上げてもらい、護衛には黒岩利雄一空曹ら腕利きがついた[4]。部隊は、13空の棚町整少佐指揮する中攻十八機、12空の戦闘機二十八機で出撃し、中華民国空軍の五十一機撃墜を報告した[5]。これ以前の飛行隊長は地上にいて空中指揮を執ることがなかった為、小園が空中指揮官として上がった最初の飛行隊長であった(但し分隊長を兼任していない為、列機は護衛機のみ)[6]

1938年7月12日小園を司会に36名の戦闘機搭乗員達が集めた「撃墜100機座談会」が行われた。1940年11月鳳翔飛行長に着任。
太平洋戦争
台南空ラバウル東飛行場指揮所前にて(左)。向かって右は工藤重敏上飛曹

1941年(昭和16年)10月、中佐に昇進、台湾台南基地に新設された台南航空隊の副長兼飛行長に着任。


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