小唄勝太郎
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小唄 勝太郎

基本情報
出生名佐藤 かつ
別名葭町 勝太郎
勝太郎
生誕 (1904-11-06) 1904年11月6日
出身地 日本 新潟県中蒲原郡沼垂町(現新潟市中央区
死没 (1974-06-21) 1974年6月21日(69歳没)
日本 東京都府中市八幡町
ジャンル流行歌民謡端唄小唄うた沢清元
活動期間1931年 - 1973年
レーベルオデオンビクターコロムビアテイチク東芝
1935年(昭和10年)、茨城県日立町(後の日立市)の「共楽館」で行われた公演光景。[1]

小唄 勝太郎(こうた かつたろう、1904年明治37年)11月6日 - 1974年昭和49年)6月21日)は日本の女性歌手。本名は眞野 かつ。旧姓は佐藤。

芸者勝太郎として葭町花街に籍を置く傍ら、『島の娘』で歌手デビューし[2]、いわゆる「ハァ小唄」の流行を作った[3]三島一声と歌った『東京音頭』の大ブーム[2]を受けて芸妓の籍を抜け、小唄勝太郎と名乗って歌手業に専念した。市丸赤坂小梅浅草〆香らとともに芸者歌手の一時代を形作ったひとり[3]1971年(昭和46年)に紫綬褒章を受章。
来歴

1904年(明治37年)、新潟県中蒲原郡沼垂町(現在の新潟市中央区)生まれ。親戚の経営する料亭「鶴善」の養女となり、1917年(大正6年)、小学校卒業と同時に鶴善からお勝の名で雛妓(おしゃく)としてお披露目。以後、長さ430間の木橋 萬代橋を毎日渡り、新潟古町まで芸の修行に通った。

新潟沼垂時代から芸の巧みさで注目され、1924年(大正13年)1月1日付けの新潟新聞では次のように紹介されている[4]。「町で一流といったら年齢は若いが、まず第一に指を屈するは鶴善楼かつ。ちょっと丸顔で眼の細い愛嬌のある.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}流行妓(はやりっこ)である。唄もいい。清元常磐津から端唄も澄んで、調子のものも得意である。芸にかけては鶴善仕込みだけあって(略)、鮮やかな腕を持っている」。

25歳で年季が明け、好きな清元の師匠として身を立てるべく、1929年(昭和4年)3月に上京[5][6]。東京での師匠となった清元延富貴葉(のぶふきは)(葭町の芸者家「新福本」の名妓ちゃら)の勧めにより、葭町(現在の中央区日本橋人形町)の松三河家から、看板借りで再び芸者としてお披露目し[7]、勝太郎と名乗る。1930年(昭和5年)10月、川辰中の看板を上げて独立[7]。清元の他、新内うた沢長唄などの研鑽を続け、のちに哥沢〆勝、清元梅勝治という名取りとなった[5](師匠は芝〆松、三代目 清元梅吉四代目 松永和風町田嘉章など)。愛くるしい笑顔と美声が東京にあっても評判となり、やがてはレコード会社からも注目を浴びることとなる。同じ葭町花街から出ていた藤本二三吉に続き、勝太郎もレコードデビュー。オデオンレコードに数曲吹き込んだ後、1931年(昭和6年)にビクターレコードと正式に契約。初期の芸名は葭町勝太郎であった。

1932年(昭和7年)、銀座の柳植樹記念として作られた『柳の雨』が、A面の四家文子が歌う『銀座の柳』とともに大ヒット。勝太郎のヒット作第1号となる。同年の大晦日、新進作曲家の佐々木俊一が作曲した『島の娘』が放送されると、聴取者から大反響を呼び、翌1933年(昭和8年)に発売されたレコードは発売から3ヶ月で35万枚を売る未曾有の大ヒット作となった。当時、著名な音楽評論家が「『島の娘』より、ベートーベンの方が好きだという人がいるとしたら、その人は日本人ではなくドイツ人である。」と絶賛したほどであった。歌いだしが「ハァー」と始まる『島の娘』のヒットを受けて、いわゆる「ハァ小唄」と言われる流行歌が次々と世に出ることとなる。だが、『島の娘』は当局から「歌詞に問題アリ」とされ、歌詞の一部を改作させられた。その後、太平洋戦争に突入する頃には発禁処分を受け、歌うことも禁じられてしまった。

一躍、人気歌手となった勝太郎は、『大島おけさ』『佐渡を想えば』と連続してヒットを出すが、決定打となったのは、盆踊りのシーズンに発売された『東京音頭』である。これは葭町の先輩 藤本二三吉が前年に歌った『丸の内音頭』の替歌であるが、その時とは違って三島一声とのデュエットによってレコーディングされ(『丸の内音頭』はA面が二三吉、B面が三島一声と、面を分けて歌っていた)、東京のみならず、日本全国の盆踊りは『東京音頭』一色に染まったのである。

人気絶頂の勝太郎は、葭町の芸者を廃業し、レコード歌手に専念することを決意。1933年(昭和8年)11月、歌舞伎座で「小唄勝太郎」襲名の披露興行が華やかに開催された(27日と28日の二夜連続公演『小唄勝太郎の夕(ゆうべ)』主催:東日社會事業團後援會)。同時に新小唄の不二派(ふじ派とも表記)を創流し、家元となる[8](現存する小唄不二派とは無関係)。同年12月に築地に転居[9]。(岸井良衞の『女藝者の時代』によると、芸者廃業日は翌年2月26日)

1934年(昭和9年)春のシーズンに発売された『さくら音頭』は、それぞれ異なる作詩・作曲家による各社競作となったが、本家ビクターの勝太郎盤が最も売り上げを伸ばした。勝太郎の人気により、レコード業界に鶯歌手旋風が巻き起こり、同じビクターから市丸コロムビアからは赤坂小梅豆千代ポリドールからは新橋喜代三浅草〆香ニットーからは美ち奴日本橋きみ栄と続々と芸者出身の歌手が人気を博したが、中でも同じ会社の市丸とは相当なライバル意識を持っていたようである。市丸は後に「勝っちゃんが歌い終わるとするようなにっこり笑う顔がどうにも愛嬌があって、あたしにはとてもできなかったの」と語っているが、当時二人は出番や着物、出演料に至るまで相当張り合っていて、新聞は勝太郎主体の記事の場合は「勝市時代」、市丸主体の記事の場合は「市勝時代」と書かねばならぬほどであった。

同年4月29日、新潟劇場にて、新潟ビクター倶楽部の主催で『小唄勝太郎披露演奏会・ビクターの夕(ゆうべ)』を開催。故郷に錦を飾った勝太郎を主役に、三味線の千代菊、歌手の徳山l藤山一郎渡辺はま子平山美代子、更に新潟芸妓連が賛助出演した[4]

5月1日、勝太郎は新潟市役所の小柳牧衛市長を訪問し、母校である沼垂小学校へのピアノの寄贈を申し出た。河合楽器製のグランドピアノで、当時のお金で1,500円。家が一軒楽に買えるほど高価であったとのこと[9]

1936年(昭和11年)、JO映画『勝太郎子守唄』に主演。


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