小向
大字
川崎競馬練習馬場
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度33分02秒 東経139度42分03秒 / 北緯35.550419度 東経139.700822度 / 35.550419; 139.700822
国 日本
都道府県 神奈川
市町村 川崎市
行政区幸区
面積([1])
0.474570866 km²
設置日1924年(大正13年)
郵便番号212-0000[2]
市外局番044(川崎MA)[3]
ナンバープレート川崎
※人口はごくわずかなため省略。
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小向(こむかい)は、神奈川県川崎市幸区の大字[4]。旧橘樹郡川崎領小向村。住居表示未実施区域[5]。この大字独自の郵便番号は存在しない。面積は47.5 ha[1]。人口はごくわずかである[6]。
なお、「小向」を冠する町名(小向東芝町、小向町、小向西町、小向仲野町)が小向の近隣に存在するが、これらは小向から分立したものである(後述)。 全域が多摩川の河川敷であり[7]、川崎競馬場小向厩舎の練習用コースや、アール・エフ・ラジオ日本川崎幸放送局の送信用アンテナなどが所在している。 小向は東端で多摩川を挟んで東京都大田区の多摩川・西六郷と、西端では戸手・小向町・小向仲野町・古市場に接している。 『新編武蔵風土記稿』には、当地を開墾した人物の名が記録されているが、彼らは小田原北条氏(後北条氏)支配下にあった武士とも多くが重複することから、同氏の旧臣が開拓した土地であると考えられる[8][9]。北条氏が滅んだ後、徳川家康の江戸入府にあたっては、小向から多摩川を渡ったことが『天正日記』に残されている[10]。 江戸時代の当地は当初天領であったが、のちに増上寺に寄進されている[11]。その結果、増上寺の年貢や賦役を負担する代わりに、助郷や国役金といった幕府からの負担は、幕末の元治期に至るまで免除されていた[12]。 村高は、正保期の『武蔵田園簿』で173石4斗あまり(別に見取場もあり)、『元禄郷帳』以降幕末の『旧高旧領取調帳』までは175石2斗あまりと、一定で推移した[11]。多摩川が頻繁に氾濫するという事情もあって[13] 農業生産力は決して高くなく[10]、多少の浸水であれば耐えられる[13]梅の栽培が江戸初期の寛文ごろから行われ[14]、一時は村全体の面積の6?7割を占めるまでになった[10]。また、多摩川からの砂利の採取も行われていたが、もとは江戸の町人が採掘権をもっており、1807年(文化4年)には採掘権を村側に取り戻す願いを、周囲の村と共同して起こしている[10]。 『新編武蔵風土記稿』では家数68軒[9]。 1871年(明治4年)の洪水で梅林は大きな被害を受け、面積は20町歩から7町歩へと減少してしまった[4]。一方、それまで栽培用であったこの梅林は、1880年(明治13年)、成島柳北が朝野新聞に「小向村探梅の記」を掲載したことで、観光地としても脚光を浴びることとなり、1884年(明治17年)には明治天皇の行幸が行われるまでになった[15]。1889年(明治22年)に町村制が施行された際、小向村など8村が合併した新村の名称は、この行幸にちなんで御幸村となった[16]。大正から昭和にかけて梅林は衰退し、御幸公園 その一方、1888年(明治21年)には堤外に煉瓦工場が設置されたり[16]、1937年(昭和12年)には東京無線(現・東芝)が当地(現在の小向東芝町)に工場を設置するなど[17]、工業地として活用する動きも見られた。 戦後には耕地整理・区画整理・住居表示の施行などにより小向東芝町、小向町、小向西町、小向仲野町が分立した結果、「小向」としては河川敷だけが残された[7]。
地理
歴史
中世
近世
明治以降
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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