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議論の要約:テロ行為を起こした山口二矢を美化・礼賛するような記述が見られることについて
おばら くによし
小原 國芳
小原 國芳
生誕小原 國芳
(1887-04-08) 1887年4月8日
日本・鹿児島県川辺郡久志村
(現・鹿児島県南さつま市)
死没 (1977-12-13) 1977年12月13日(90歳没)
職業教育学者
著名な実績学校法人玉川学園を創立
配偶者小原信
子供小原哲郎
小原 國芳(おばら くによし、1887年4月8日 - 1977年12月13日)は、日本の教育学者。学校法人玉川学園の創立者。永野修身海軍大臣直属海軍教育顧問なども務めた。日本基督教団のクリスチャン。また、小原は日本だけでなく、朝鮮半島や満洲、中国大陸、そして台湾などのアジアの各地を広範に歩き回って「新教育」の重要性を説き、伝える役割を果たした。一時期「鯵坂」姓を名乗った[1]。
生涯南さつま市坊津町久志の生家跡地にある小原國芳誕生地公園
1887年、鹿児島県川辺郡南方郷久志村(現:南さつま市坊津町久志)に生まれる[* 1][2]。早くに母を亡くす[3]。祖父は寺子屋の師匠だったが、家が没落したため進学ならず[4]、13歳で通信技術養成所に入所し、鹿児島大浜海底電信所(現在の鹿児島県肝属郡南大隅町に所在)の技手となった。向学の念を抑え難く、18歳で電信所を辞めて鹿児島県師範学校に入学し、興味のあったキリスト教を学ぶために訪ねた教会で小学生の授業を頼まれたのをきっかけに毎週教会に通うようになり、洗礼を受ける[3][5]。父親の借金返済問題から郷里の素封家「鯵坂家」の養子となったことで、1909年に広島高等師範学校英語科に進学することができた[5]。同校卒業後、1913年に香川師範学校教諭となり、授業に独自の手法を取り入れた[5]。
1915年、29歳で京都帝国大学文学部哲学科に入学し、1918年に卒業。卒業論文は「宗教による教育の救済」で、原稿用紙1500枚に及ぶ長大なものであった(後に改稿し『教育の根本問題としての宗教』として刊行)。京大時代には、のちに湘南学園設立のきっかけとなる藤江富佐[* 2]から多大な支援を受け、のちに養家の鯵坂家を出る際には借金返済の援助もしてもらった[1]。
大学卒業後、広島高等師範附属小学校教諭・理事(教務主任に相当)となる。1919年、澤柳政太郎が成城学園を創設するに当たり、長田新の推挙で成城小学校主事(訓導)として赴任。
1921年には、八大教育主張講演会において「全人教育」の理念を唱える。
1926年、 成城高等学校(7年制)校長となる。駅(成城学園前駅)を招致して宅地開発を行いその利益で学校を建設する方法で成城学園を拡大した。ちなみに現在の成城学園を発展させるにあたって小原は本間俊平に助言を求めており、本間のアドバイスと支援によって計画は形作られていった。その手法を応用し(玉川学園前駅)、1929年に自ら玉川学園を創設した。小原が玉川学園を新たに創立するに至った背景には、成城学園が段々と発展するに従って、進学実績を伸ばしたい教師や在校生、保護者の意見が強くなり、他の学校と同様に段々と各帝国大学や陸軍士官学校といった学校へ入学するための教育を第一とする予備校的な性格の学校となっていったことに不満を募らせたとされる[6]。ある時、京都帝国大学時代に世話になった恩師の小西重直、波多野精一、西田幾多郎を招いた時、小原は「夢の学校論」を唱え、新教育による教育の総本山を築くことを訴えたという。しかし結局、並行して2つの学校の指導をすることは立ち行かず、1933年に教師や保護者を巻き込んだ成城事件が勃発した。これは会計や人事を巡って教師とPTAが小原派と反小原派に分かれて対立し、生徒も加わって反乱を起こした事件で、小原騒動とも呼ばれた[7][8][9]。この問題について小原は「玉川教育の開花に対するヤッカミが成城関係者にはあった」と述べている一方で、反小原派は玉川学園を巡る成城学園の経理の問題を訴えた。この騒動によって最終的に小原は成城学園から身を引き、玉川学園での教育に専念することとなった。後の和光学園になる和光小学校も、やはり成城事件に絡んで成城学園から離れた教師・保護者が創立したものである。
玉川学園はその後、幼稚園・小学部・中学部・高等部・大学・大学院を揃えた大規模な総合学園に成長した。玉川大学の初代学長は元東京文理科大学(現:筑波大学)教授の田中寛一、第2代は京都帝国大学での小原の恩師波多野精一で、小原は3代目学長である。
1933年には、京大時代からの恩人・藤江富佐より孫のための学校を作ってほしいとの依頼があり、湘南学園を創立した[1]。
小原は玉川学園を創立すると同時に、最高学府である大学の創立に向け準備を整え、1942年(昭和17年)に東久邇宮稔彦王と永野修身元帥の働きかけもあり、玉川学園内に興亜工業大学を創立した(現:千葉工業大学)。私立大学ではありながら、文部省の指導を受ける国策的な意図を持った大学であり、国家枢要を担う人材の養成を行うための拠点として整備される一方で、小原が唱えた全人教育等の教育理念が建学の精神として採り入れられた。
また、時の海軍大臣永野修身に乞われて、日本海軍の教育改革に協力した際、海軍の伝統となっていたハンモックナンバーによる昇進や役職任命制度を廃止し、能力主義によるものへと改めるように助言したが、永野海軍大臣が本格的に改革に乗り出す前に辞任してしまい、実現しなかった。
国家を造るのは人であり、国家の存亡にとって教育が一番大切だと考えていた小原は、陸軍には参謀本部、海軍には軍令部、司法には大審院などの最高機関があるように国家を形成する人を造るための最高機関として「教育本部」の設置が望ましいと考えていた。