小原乃梨子
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おはら のりこ
小原 乃梨子
プロフィール
本名戸部 法子
(とべ のりこ)
[1][2][3][4](旧姓:小原[4]
愛称ノッコ[5]
性別女性
出身地 日本東京府東京市豊島区池袋(現:東京都豊島区池袋)[4]
生年月日 (1935-10-02) 1935年10月2日(88歳)
血液型O型[2][6][7]
職業声優女優ナレーター
事務所81プロデュース[8]
配偶者戸部信一
著名な家族戸部敦夫(息子)
公式サイト小原乃梨子 - 81プロデュースの公式サイト
公称サイズ(時期不明)[9]
身長 / 体重162 cm / 48 kg

声優活動
活動期間1950年代 -
ジャンルアニメ吹き替えゲームナレーション
女優活動
活動期間1955年 -
ジャンルテレビドラマ舞台
デビュー作『日真名氏飛び出す
朗読家活動
活動期間1988年[10] -
ジャンル朗読
声優テンプレート | プロジェクト | カテゴリ

小原 乃梨子(おはら のりこ、1935年昭和10年〉10月2日[2][3][4][11] - )は、日本声優女優ナレーター、朗読家である。夫は演出家の戸部信一。息子はアニメーター戸部敦夫東京府東京市豊島区池袋(現:東京都豊島区池袋)出身[4]
経歴
生い立ち

弁護士の父[2]の娘として生まれる[12]。父は明治生まれのハイカラで船来が好きで、船来のスーツを着こなし、ベッドに寝て、船来のオーデコロンを愛用してふりかけていた[3][4]。芸人で端唄、小唄をうなり、寄席が好きで、六法全書の隣に落語全集がおいてあった[3][12]。3人姉妹で、父は姉に花柳流、小原に藤間流、妹に坂東流を習わせ、同じ曲を3人一緒に踊らせて見るのを楽しむ超粋人だった[3]。母はカトリック教徒で、敬虔なクリスチャンだった[2][4]。その時は毎週日曜日には家族揃って教会に出かけ、小原も礼拝を欠かさなかったという[4]。中学3年生か高校1年生位の頃、日曜学校に行き、クリスマスの聖誕劇の時はオルガン弾いて子供たちにやらせたり、青年部の人物たちにトルストイの『人は何のために生きるのか』を自分で脚色してやらせてみたりしていた[13]。兄、姉[12][14]、妹がいる[3]

小学生の頃、とても体が弱く、腺病質な女の子だった[3]。入院記録は13回で、テレビもなく、病室で本ばかり読んでおり、お話が好きになり、読んでるだけではなく、自分でやりたくなってしまったという[3]

戦時中、小学3年生の時に小学6年生だった姉と一緒に東京から長野県上高井郡須坂町(現:長野県須坂市)に行って、長野県に最年少で集団疎開[14]するも、食べ物の好き嫌いが激しかったために半年で親元へ帰される。縁故疎開先の埼玉県所沢市で敗戦を迎える[4]
キャリア

小学5年生の時に近所の友人に誘われて、児童合唱団「虹の橋」に入団[4][6][15][16]。父は反対していたが、芸事が好きだった母が、父に内緒で通わせてくれたという[15]子役として舞台、NHKの子供番組などに出演[4][15]。3級下に池田昌子がいる[15]。本を読むこと、作文を書くことが好きであり、物書きになろうと考えており、当時は村岡花子のような少女小説家に憧れていた[15]。中学時代に好きだったルイーザ・メイ・オルコットの『若草物語』が映画化され、母に連れて行ってもらい、ジョーを演じていたジューン・アリスンを見て、「女優ってすごい!! 女優になりたい」と女優を目指した[15][16]。後に映画『若草物語』の日本語吹き替え版でジョー役を演じた[16][17]。その時は嬉しく、「役者になって良かったなあ」と思ったという[13]

小学校卒業後、跡見学園中学校・高等学校[9]に進学し、芸能活動を休止していたが[12]、同高校時代は演劇部の活動に熱中していた[4]。高校時代、学生演劇のコンクールで小原が通っていた高校としては初めて最終審査に残り、あの頃は東京都立九段高等学校が会場であったという[13]。高校時代は文芸部にも所属しており、生徒会長もしていた[18]

同高校を卒業すると、自分と同じ法曹界に進ませたいという父親の期待に反して芸能界に入り、劇団の先輩の紹介でプロダクションに所属し、草創期の民放でテレビドラマの仕事を女学生役で始める[6][15][19][20]。所属事務所は、その後、劇団女優座[4][21]、テアトル・ジェンヌ[3]、プレーヤーズ・センター[21]、東京プロ[21]りんどうプロ[22]、高松事務所[21]青二プロダクション[21]の所属を経て、2018年4月30日をもって創業時から所属していたぷろだくしょんバオバブを退所、同年6月3日付けで81プロデュースへ移籍した[23]。当初は女優としてテレビドラマ、ラジオドラマに出演していた[6]。新劇を続けるつもりだったが、「テレビドラマもおもしろそう」と思った[19]。同時期には生放送時代で始まったばかりの吹き替えの仕事にも参加[15][16][19]

1957年、TBSのテレビドラマ『キンピラ先生青春記』で女学生役で出演し、初レギュラーでもあるアメリカの映画『ソニー号空飛ぶ冒険』に、小林恭治城達也と一緒にレギュラー出演していた[13][15]。当時は生放送で、ヘリコプター会社の秘書役を演じ、「こちらヘレン、応答どうぞ」と言って、スイッチの効果音まで入れていた[15]。その時は生放送だけにトラブルも多かったが、元々映画好きだったことから、この吹き替えの仕事が面白く仕方がなかったという[15]結婚後、家庭を持つと子育ての時間のやりくりができる声優業に専念することになった[12][19]。好きだった映画の主人公を声で演じられるのが嬉しく、声優の仕事にのめり込んで行ったという[15]
声優として

1950年代 - 1960年代は洋画の吹き替えに出演していたが、1960年代後半から、洋画と並行してアニメの仕事も増えていったという[24]

チキチキマシン猛レース』、『未来少年コナン』、『アルプスの少女ハイジ』、「タイムボカンシリーズ」など、多くの人気作品でレギュラーキャラクターを担当[8][24]

1979年からは『ドラえもん』で、野比のび太を演じることとなり、高齢化に伴い、2005年に全面リニューアルされるまでの約26年間のび太役を務めあげた[24]。後任は大原めぐみ

1988年頃より講演活動と童話の朗読活動を開始[10][20]1998年からは『小原乃梨子の読み聞かせ講座』として全国展開した[19]。朗読の指導や読み聞かせの研究会に力を入れている[20][25]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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