小倉祇園太鼓(こくらぎおんだいこ)は、福岡県北九州市小倉北区で行なわれる祭。小倉城内に鎮座している八坂神社の例大祭で[1]、江戸時代以来、約400年の歴史を有する古い祭りである。京都の祇園祭、博多の博多祇園山笠と共に「全国三大祇園」に数えられることもあり[2]、また福岡県内では博多祇園山笠、戸畑祇園大山笠と共に「福岡県の三大祇園祭」と数えられることもある。
小倉祇園太鼓は太鼓とすり鉦(ジャンガラ)による演奏が主役となる「太鼓祇園」である。演奏のスタイルには山車に太鼓を設置し叩きながら練り歩く「廻り太鼓」と、台に設置した太鼓を叩く「据え太鼓」が存在する。太鼓の音には天下泰平、国土安泰、五穀豊穣、商売繁盛、家内安全を願う意味が込められ[3]、古来より「祇園風に吹かれると夏患いせぬ」といわれる[4]。
太鼓の太さは一尺三寸から一尺五寸までが定式とされるが、まれに一尺七寸、二尺のものも存在する。太鼓の材料にはケヤキの木が使われる[5]。
全国に存在する祭に多い女人禁制は敷かれていない(後述)。 小倉祇園太鼓が始まったのは元和4年(1618年)のことである。この年、豊前国一帯は干ばつ、疫病、暴風雨による水害などに悩まされていた[6]。当時の藩主細川忠興は家宝を換金して被災者救済にあて、自らも八坂神社に参籠したところ平穏を取り戻したことから、領民を招いて旧暦の6月10日から三日三晩、京都の祇園祭をもとにした盛大な祇園祭を行ったのが始まりとされる[7]。当時は能行事の形式を取っており、楽器も鉦、鼓、笛が使われ、まだ太鼓は使われていなかった[4]。 その後藩主が小笠原家に変わっても祇園祭は継続され、治民対策として大いに奨励された。太鼓を打つようになったのは小笠原忠雄が藩主であった万治3年(1650年)のことで、囃方の清五郎が江戸の神田祭、山王祭の囃方からヒントを得て考案し、地元の少年4人に教えたのが始まりとされる[4]。当時から小倉祇園太鼓の日には多くの人出があり、元禄16年(1703年)の舟番所の記録には祭りの二日前の時点で他国からの見物の船が212隻、人数が1335人とあり、豊前国内や筑前などから訪れる陸路での見物客も含めると、かなりの人出があったことがうかがえる[7]。このため古くから「関の先帝 小倉の祇園 雨が降らねば金がふる」といわれた[6]。これは小倉祇園太鼓や下関の先帝祭は雨に見舞われることが多いが、晴れると多くの人が集まり、町では大いに商売繁盛するという意味である[7]。 当時の小倉祇園太鼓は神輿に飾り山、踊車、笠鉾が巡行し練り歩くもので、城主が在国の年には城内に練り込み、城主が物見櫓からそれを見物したという[8]。当時は京都の祇園祭で使われるような飾り付けをした山車が用いられており、太鼓は前後から六尺棒で担いで中央に提灯をつるした笹竹を立て、歩きながら打ったという。[3]
歴史
起源