小倉家
.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}右三つ巴(みぎみつともえ)
本姓藤原北家閑院流洞院家庶流
家祖小倉公雄
種別公家(羽林家)
華族(子爵)
出身地山城国
主な根拠地山城国
京都市左京区永観堂町
小倉家(おぐらけ)は、 藤原北家閑院流の洞院家庶流の公家・華族だった家[1]。公家としての家格は羽林家、華族としての家格は子爵家[2]。
歴史に至って38年ほど中絶したが、権大納言四辻公遠の子小倉季藤(右少将)が再興[3]。
家格は羽林家、旧家、外様[1]。江戸時代の家禄は150石[1][注釈 1]。
江戸時代前期の当主権大納言小倉実起の娘(中納言典侍)は霊元天皇の後宮に入り第一皇子の一宮(済深入道親王)を生んだ。当時天皇の女御には皇子がなかったため一宮を皇位に擁立する動きがあったが、その後内大臣松木宗条の娘(大納言典侍)が生んだ五宮(東山天皇)が皇位に擁立され、一宮は天和元年(1681年)4月に大覚寺へ入れられることが決まった。この措置を不服とした実起は一宮と共に引き籠もり、9月に一宮と共に蟄居を命じられ、10月22日に解官のうえ佐渡流罪となった(小倉事件)[4]。
明治維新後の明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家と大名家が統合されて華族制度が誕生すると小倉家も公家として華族に列した[5][6]。明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると、同8日に大納言直任の例がない旧堂上家[注釈 2]として小倉英季が子爵を授けられた[2]。
英季は陸軍軍人となり、歩兵大佐まで昇進し、歩兵連隊長として日清日露で戦功を上げて金鵄勲章功4級を賜った。予備役入り後貴族院の子爵議員に当選して務めた[3]。
義季の代の昭和前期に小倉子爵家の邸宅は京都市左京区永観堂町にあった[3]。 洞院実雄
系譜
実線は実子、点線(縦)は養子。
小倉公雄1
実教2
季孝季雄富小路公脩3季長
実遠小倉実名4
公種5
実右6 [注釈 3]
季種7 [注釈 4]
公右8
季藤9
公根10 [注釈 5]
実為11
実起12 [注釈 6]
公連13熙季
実躬14