小倉宮
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小倉宮家

家祖小倉宮恒敦
後亀山天皇皇子
種別皇族宮家
出身地吉野
凡例 / Category:日本の氏族

小倉宮(おぐらのみや)は室町時代に存在した宮家の一つ。南朝の系統に属する宮家で、初代は南朝第4代後亀山天皇の皇子・恒敦(つねあつ)。嵯峨小倉山下に住したので小倉宮と呼ばれた[1]

皇位継承や幕府の権力闘争に翻弄され、自らも皇位を競望して兵事に参画するなど、後醍醐帝以来の流儀を貫いた末に絶家した。
概略

足利義満の主導で実現した南北朝合一では、「両朝御流相代之御譲位」、つまり以後は旧北朝と旧南朝が交互に皇位に即くという約束だった。しかし、その約束は後小松天皇の認めるところではなく、後小松天皇の後継を定める立太子もないまま応永15年(1408年)には義満が死去。そんな中、応永17年(1410年)になって後亀山院は突如として吉野へ出奔。その理由について伏見宮貞成親王の日記『看聞御記』では「此五六年被號御窮困」[2]としており、経済的困窮が理由とされているものの、村田正志は「もちろんこれがその理由のみではなく、また一方では、義満が在世中にはまだ皇太子が定まらなかったけれども(略)」[3]と、南北朝合一の約束が果たされなかったことに対する抗議の意味が込められていたという見方を示しており、森茂暁も「後亀山の最大限の抗議行動とみてよい」[4]としている。しかし、そうした政治的デモンストレーションは結局、何の実りももたらさなかった。応永18年(1411年)11月、後小松天皇は第一皇子の躬仁を皇太子とし、応永19年(1412年)8月、称光天皇践祚した。わずか11歳という幼さだった。それから4年後の応永23年(1416年)9月、後亀山院は嵯峨に還御。『看聞御記』によれば、室町殿(足利義持)よりの再三の申し入れに応じての還御という[2]。そして、応永31年(1424年)4月12日、崩御。醍醐寺座主満済の日記『満済准后日記』によれば「大覚寺法皇崩御。雷鳴最中云々」[5]

その後亀山院に恒敦という皇子がいたことを伝えているのが前内大臣万里小路時房の日記『建内記』で、嘉吉3年(1443年)5月9日の条として「南方小倉宮」の入滅について記しつつ割注として「後醍醐院玄孫、後村上曾孫、後亀山院御孫、故恒敦宮御子」云々(さらに岩波書店刊『大日本古記録 建内記(六)』では「恒敦宮」に校訂者注として「良泰親王」と傍記されており、『國史大辞典』でも「後亀山天皇の皇子良泰親王」とされている。これに対し、森は「恒敦宮を良泰親王とする意見があるが、その根拠は定かでない」としており、本記事でも「恒敦」と表記する。なお、恒敦宮と良泰親王は別人物とする説もある。詳しくは「良泰親王」参照)。これにより、後亀山院には恒敦という皇子がおり、これが初代小倉宮であることが裏付けられる。ただし、森によれば小倉宮恒敦の関係史料は乏少で、この記事の他には権大納言中山定親の日記『薩戒記』の目録[注釈 1]の応永29年(1422年)7月15日の条として「小倉殿御入滅事」とあるのが唯一という[6]。森はこの「小倉殿」が小倉宮恒敦であるとしており、であるならば恒敦は父である後亀山院に先立って亡くなったことになる。また、後亀山院が吉野へ出奔した砌、皇子である恒敦が同行したのかどうかも一次史料では裏付けられない。

一方、11歳で践祚した称光天皇だが、生来病弱で、応永25年(1418年)には京都五山の寺院で病気平癒の祈祷も行われている。しかし、その霊験もなく、応永32年(1425年)にはいよいよ病状は深刻な事態に。称光天皇には皇子がなかったため、持明院統北朝)嫡流の断絶が確実となった。この機を捕え、南朝支持者が皇位を所望する旨を申し入れたとされる。しかし、朝廷・幕府の方針は既に伏見宮貞成親王の子・彦仁王の擁立で内々に一決していたので、申し入れが聞き入れられることはなかった[7]。この際、南朝支持者が擁立を図ったのが上述『建内記』嘉吉3年5月9日の条に見える「南方小倉宮」こと第2代小倉宮(通常は小倉宮聖承と呼ばれるものの、「聖承」は出家後の法名で、俗名については『建内記』でも「俗名可尋之」とされており、定かではない。また岩波書店刊『大日本古記録 建内記(六)』では校訂者注として「泰仁王」と傍記されているものの、これについても森は「根拠は明確ではない」としており、この時点ではまだ出家前ではあるものの、便宜上、本記事でも以降は「聖承」と表記する)と考えられる。森によれば「皇位の回復のため最も派手に動き回ったのは、この二代目小倉宮聖承」[8]で、この時も最早南北朝合一の約束は反故になったと確信した聖承は、正長元年(1428年)7月6日、伊勢国国司で南朝側の有力者である北畠満雅を頼って居所の嵯峨から逐電[9]。満雅はこの当時、幕府と対立していた鎌倉公方足利持氏とも連携し、聖承を奉じて蹶起した。しかし、持氏が幕府と和解したことにより、この動きは大きな広がりを見せることはなかった。そして、正長元年12月21日、雅満は伊勢国守護土岐持頼に敗れて戦死。その後も聖承は伊勢国に留まって抵抗を続けたものの、満雅亡き後の北畠家は嫡子・教具がまだ7歳と幼かったこともあって最終的には幕府との和睦を選択[注釈 2]。そのため、聖承の処遇が問題となる。『建内記』によれば、永享2年(1430年)2月頃より聖承側と万里小路時房の間で帰京のための条件が話し合われていることが読み取れる。


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