小倉 倹司(おぐら けんじ、1861年4月19日(文久元年3月10日) - 1946年(昭和21年))は、陸地測量部の測量官を務めた陸軍技師。日本で最初のフィルムによる写真撮影を実施したとされる者として知られている。 文久元年に現在の茨城県にて小倉元心の次男として生まれる。東京帝国大学理科選科を卒業[1]。1887年(明治20年)に陸地測量部の前身組織である参謀本部陸軍部測量局に技生傭として奉職。1889年(明治22年)5月に小川一真、江崎礼二らとともに日本寫眞會の設立に関わる[2]。同年12月25日、陸地測量部陸地測量手(判任官)に任官し、1894年(明治27年)、日清戦争に陸地測量部の従軍写真班として従事、翌年帰国した。このときの撮影は、日本で最初の公式戦争記録である。併せて、従来の写真乾板に代わってフィルムが使用され、これが日本における写真フィルム使用の最初ではないかといわれている。 1895年(明治28年)10月にオーストリアに写真製版技術研究のため留学を命ぜられ、帰朝後の1899年(明治32年)7月5日、陸地測量師(高等官七等)に任ぜられる[3]。留学先であったオーストリア陸地測量部のアルチュール・フォン・ヒューブル
来歴・人物
日露戦争にも大本営写真班の班長として第2軍司令部に付属して戦地派遣を命ぜられ、小倉が1905年(明治38年)7月26日夕刻に撮影した奉天城内二元帥六大将の会見は、有名な絵葉書となった。1914年(大正3年)4月15日、農商務省から東京大正博覧会審査官を嘱託され[6]、同年6月23日高等官五等に[7]、1918年(大正7年)6月29日高等官四等に[8]陞進。
1919年(大正8年)1月28日依願免官[9]となり、引き続き陸地測量部において写真製版に関する業務嘱託となった。
栄典
1895年(明治28年)
11月18日 - 明治二十七八年従軍記章[10]
12月7日 - 勲八等白色桐葉章[11]
1899年(明治32年)10月20日 - 従七位[12]
1900年(明治33年)12月20日 - 勲七等瑞宝章[13]
1902年(明治35年)12月27日 - 勲六等瑞宝章[14]
1904年(明治37年)8月4日 - 正七位[15]
1905年(明治38年)12月22日 - 勲五等瑞宝章[16]
1906年(明治39年)4月1日 - 勲四等旭日小綬章、明治三十七八年従軍記章[17]
1909年(明治42年)10月20日 - 従六位[18]
1914年(大正3年)11月10日 - 正六位[19]
1915年(大正4年)11月7日 - 大正三四年従軍記章[20]
1918年(大正7年)8月29日 - 勲三等瑞宝章[21]
1919年(大正8年)2月27日 - 従五位[22]
脚注^ 帝国大学出身名鑑
^ 中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門調査会 (2005): 1888 磐梯山噴火 報告書 付論
^ 『官報』第4803号、明治32年7月6日。
^ 『官報』第6015号、明治36年7月21日。
^ 『官報』第6284号、明治37年6月13日。
^ 『官報』第513号、大正3年4月17日。
^ 『官報』第569号、大正3年6月24日。
^ 『官報』第1773号、大正7年7月1日。
^ 『官報』第1945号、大正8年1月29日。
^ 『官報』第3950号・付録「辞令」、明治29年8月27日。
^ 『官報』号外、明治28年12月19日。
^ 『官報』第4893号、明治32年10月21日。
^ 『官報』第5243号、明治33年12月21日。
^ 『官報』第5848号、明治35年12月29日。
^ 『官報』第6332号、明治37年8月8日。
^ 『官報』第6746号、明治38年12月23日。
^ 『官報』第7098号、明治40年3月1日。
^ 『官報』第7899号、明治42年10月21日。
^ 『官報』第684号、大正3年11月11日。
^ 『官報』第1189号、大正5年7月18日。
^ 『官報』第1824号、大正7年8月30日。
^ 『官報』第1970号、大正8年2月28日。
参考文献
「「大本営将校同相当官高等文官勲績明細書綴」(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C06041117500
校友調査会編『帝国大学出身名鑑』校友調査会、1934年。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1280156/222。
関連項目
大日本帝国陸軍文官一覧
外部リンク
ウイーンフィルを聴いた最初の日本人は? - ウェイバックマシン(2012年10月1日アーカイブ分)
⇒大演習における明治天皇 明治44年11月小倉の撮影、函館市中央図書館デジタル資料館
“幕末明治の写真師 総覧”. 2022年5月22日閲覧。