小久保 喜七(こくぼ きしち、慶応元年3月22日(1865年4月17日) - 昭和14年(1939年)12月14日[1])は、日本の衆議院議員(立憲政友会)・貴族院勅選議員。号は城南。古河市中田の文武館責任者 常陸国猿島郡新郷村(現在の茨城県古河市)出身。栃木県佐野町で漢学を学んだ[2]。明治13年(1880年)より自由民権運動に投じ、翌年春に有終会という政社を結成し、さらに自由党結成大会に出席した[2]。明治17年(1884年)には加波山事件、明治18年(1885年)には大阪事件、明治22年(1989年)には大隈重信暗殺未遂事件に関与したとして逮捕されたが、いずれも不起訴または無罪となった。 明治23年(1890年)、立憲自由党が成立すると幹事に就任した。明治25年(1892年)、茨城県会議員に当選し、副議長に推された。後に自由党を離党し、大井憲太郎・神鞭知常・佐々友房らとともに内地雑居に反対した[2]。明治28年(1895年)、議長選挙に敗れて、県会議員を辞職[2]。明治31年(1898年)、台湾で台湾通信社を創設した[2]。その後内地に戻り、明治34年(1901年)に立憲政友会に入党した。 明治41年(1908年)の第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、6期にわたって務めた。その間、政友会系の自由通信社の社長になり、原内閣では逓信参事官を務めた。 昭和3年(1928年)10月、貴族院議員に勅任され[3]、死去するまで在職した。また大東文化協会の顧問も務めた[4]。 2019年現在、森ビルが中心となって再開発を行なっている麻布の我善坊谷(現在の住所は麻布台)の六本木側の入口にある、日露戦争時に日本のスパイとして殉職した横川省三の記念公園には、小久保が「天地知心」と記した国旗掲揚 典拠管理
目次
1 経歴
2 その他
3 脚注
4 参考文献
経歴
その他
脚注^ 『官報』第3887号、昭和14年12月19日。
^ a b c d e 『日本ダイレクトリー』p.122
^ 『官報』第546号、昭和3年10月19日。
^ 『時の人』
参考文献
『時の人』イハラキ時事社、1939年。
『大日本人物名鑑』ルーブル社出版部、1921年。
清田伊平『日本ダイレクトリー』甲寅通信社編集部、1915年。
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NDL: 00312556
VIAF: 260494999
更新日時:2019年3月12日(火)11:02
取得日時:2019/07/19 03:35