小中陽太郎
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誕生 (1934-09-09)
1934年9月9日(89歳)
兵庫県神戸市
職業小説家評論家翻訳家
言語日本語
国籍 日本
主な受賞歴野村胡堂文学賞(2013年)
ウィキポータル 文学
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小中 陽太郎(こなか ようたろう、1934年昭和9年〉9月9日[1] - )は、日本小説家、社会評論家翻訳家
来歴・人物

兵庫県神戸市生まれ[1]。長女は星槎大学非常勤講師の小中さつき。次女はフジテレビで『SMAP×SMAP』などの広報を2017年10月まで担当していた小中ももこ[2]梅原猛は厳密には従兄弟ではなく、小中の妻の父の妹の夫の弟の息子にあたる。小中の妻の叔母が梅原の養母(小栗風葉の妹・俊)であるため、従兄弟と表記している文献もある。

幼時を上海で過ごす。東京都立大学附属高等学校を経て、東京大学文学部仏文科で渡辺一夫に師事。1958年に同大学を卒業してNHKに入り[1]ディレクターとして『夢であいましょう』などを手がける。1964年に退職してフリーとなり[1]野坂昭如の薫陶を受けてルポルタージュコラムを執筆[1]

1965年、小田実たちと共にベ平連を結成[1]。世話人としてパリハノイストックホルムに赴き、国際連帯に貢献する。特に脱走兵援助では、ハノイやモスクワを巡った[1]。1970年から法政大学講師を務める[1]。1979年公開の映画「十八歳、海へ」(監督・藤田敏八、主演・森下愛子)に、大学講師役で出演した。1983年にフルブライト交換教授として渡米し[1]、ウェストヴァージニア大学客員教授[1]、のちにニューヨーク市立大学ブルックリン校客員教授を務める[1](1984年まで)。1991年、日本に帰国して中部大学女子短期大学[1]英語英米文化学科主任教授、および中部大学[1]人文学部コミュニケーション学科教授に就任。1992年、ペン大会日本代表としてバルセロナに赴く[1]名古屋経済大学短期大学部[1]放送コース客員教授、星槎大学客員教授[1]。2013年、『翔べよ源内』で第1回野村胡堂文学賞を受賞。

日本ペンクラブ専務理事(1997年 - )[1]。アジアキリスト教協議会議長。「九条の会」傘下の「マスコミ九条の会」呼びかけ人を務めている[3]
著書

『愛と別れ』(
河出書房新社) 1964年

『手づくりの論理』(合同出版) 1969年

『秘聞の書 歓喜の話をたっぷり読もう』(大和書房、ダイワブックス) 1969年

『天誅組始末記』(大和書房) 1970年

『女のいろめがね 出世のために・交際のために・女のコをベッドで裸にするために』(秋田書店、サンデー新書) 1970年

『昭和元禄・行動的にっぽん人 常識を変えた現代の英雄』(明文社) 1970年

『王国の芸人たち』(講談社) 1972年

『小説 ふぁっく』(現代評論社) 1972年

『脱サラ発想術 ダイナミックに生きる新職業論』(産報、サンポウブックス) 1972年

『私の中のベトナム戦争』(産経新聞社) 1973年

『小説灘高校』(サンケイ新聞社出版局) 1974年


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