小ロマン派(しょうロマンは、Petits romantiques)フェリシアン・ロップスによるアロイジウス・ベルトラン
『夜のガスパール』の挿絵(1868年)19世紀フランス、ドイツ、イギリスのロマン主義文学において、小ロマン派と呼ばれる一派があった。特にフランスで1820年代以降E.T.A.ホフマンの紹介が始まると、その影響を受けて、幻想的な作品を生み出すようになった作家を指し、ノディエやゴーティエ、さらにはバルザック、メリメ、デュマらもその影響を受けた[1]。
批評家のガエタン・ピコンは、これらの作家は、「その輝かしい名前によって追いやられた無名性だけでなく、物悲しい叙情性、社会的・形而上学的な反抗精神、不気味なものに対する喜び、熱狂的ロマン主義といったより根本的な特徴を共有している」と述べている[2]。 1896年にユージン・アセ
定義
マックス・ミルネール(1923-2008)によると、この「一般名称」は、「侮蔑的とは言わないまでも横柄さが感じられるこの表現によって、これらの作家がこれまでどのような意図で研究されてきたか、そして今後もどのような意図で研究される可能性があるか、まさにそのような意図」を反映している[4]。ウィリー・ポール・ロマンは、1950年代初頭には、「2種類のロマン主義があった。一つは、有名な作品だが、もはや面白味のないもの、そしてもう一つは、その豊かさがまだ過小評価されているもの、である。良き時代のアルフレッド・ド・ヴィニーやシャルル=オーギュスタン・サント=ブーヴについては、もはや語るべきことがほとんどないのに対して、ジェラール・ド・ネルヴァルについては我々はまだ理解し始めたばかりで、シャルル・ノディエに至ってはこれからその全貌が明らかになる」という現状であったという[5]。
歴史バルザック『セラフィタ』挿絵(fr:Edouard Toudouze、1897年)
19世紀の小ロマン派は、文学愛好家・書誌愛好家であったポール・ラクロワ(フランス語版)(1806-1884)、シャンフルーリ(フランス語版)(1821-1889)、シャルル・モンスレ(フランス語版)(1825-1888)、シャルル・アスリノー(フランス語版)(1820-1874)、ジュール・クラルティー(フランス語版)(1840-1913)らによって研究されてきた。マックス・ミルネールは、彼らには「共同墓穴(ここには、ルノメ(評判の女神)に侮蔑された者たちがみんな一緒に入れられている)から掘り起こすのが困難であった人物(作家)を、忘却の淵から救うための豊富な知識」があったと評している[4]。
「小ロマン派」という用語は、グザヴィエ・フォルヌレ(1809-1884)など個々の作家をさすこともあるが[6]、ヴィクトル・ユーゴーなどの作家に影響を受けた一派を指すこともある。テオフィル・ゴーティエの『ロマン主義の歴史』によると、ゴーティエ、ネルヴァルらがヨハン・デュ・セニュール(フランス語版)のアトリエに集まり、「プチ・セナークル(フランス語版)」を結成した[7]。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}この集まりには、ジェラール・ド・ネルヴァル、アウグストゥス・マケ(フランス語版)(1812-1888)、フィロテ・オネディ(フランス語版)(1811-1875)(各自が本名を多少変えて趣向を凝らした名前を使っていた)、ナポレオン・トム、ジョセフ・ブシャーディ(フランス語版)(1810-1870)、セレスタン・ナントゥイユ(フランス語版)(1813-1873)、少し後にはゴーティエ、さらに後にはペトリュス・ボレル(フランス語版)(1809-1859)らが参加していた。友情で結ばれたこれらの青年たちは、画家や彫刻家、版画家、建築家、あるいは建築を勉強している者などであった[8]。
彼らは1830年の「エルナニ事件(フランス語版)」で結びつきを得て、オネディが「社会に反逆する形而上学的十字軍」「思想の山賊たち」と呼んだように、文学において「芸術のための芸術」を主張しただけでなく、政治的にも宗教的にも反権威的な思想を持っていた[9]。
概念論争エルナニ事件で騒ぐロマン主義者たち(J・J・グランヴィル画、1836年)