小アグリッピナ
[Wikipedia|▼Menu]

この記事は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。
出典検索?: "小アグリッピナ" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2012年7月)

小アグリッピナ
Agrippina Minor
ローマ皇后
小アグリッピナの胸像(ワルシャワ国立美術館蔵)
在位49年1月1日 ? 54年10月13日
別称号アウグスタ

全名ユリア・アグリッピナ(Julia Agrippina)
別称ユリア・アウグスタ・アグリッピナ(Julia Augusta Agrippina)
アウグスタ・マーテル・アウグスティ(Augusta Mater Augusti)
出生 (15-11-06) 15年11月6日
ローマ帝国オッピドゥム・ウビオルム
死去 (59-03-23) 59年3月23日(43歳没)
ローマ帝国ミセヌム
埋葬ローマ帝国ミセヌム
配偶者グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブス
 ガイウス・サルスティウス・クリスプス・パッシエヌス
 クラウディウス
子女ネロ
家名ユリウス=クラウディウス家
父親ゲルマニクス
母親大アグリッピナ
テンプレートを表示

小アグリッピナ(ラテン語: Agrippina Minor, 西暦15年11月6日 - 西暦59年3月23日[要出典])は、ローマ帝国ユリウス=クラウディウス朝の皇族。正式の名前はユリア・アグリッピナ(ラテン語: Julia Agrippina)、後にユリア・アウグスタ・アグリッピナ(ラテン語: Julia Augusta Agrippina)と名乗る。

皇帝ネロの母親として知られている。父はゲルマニクス、母は大アグリッピナ。兄に第3代皇帝カリグラがいる。目次

1 生涯

1.1 薄幸な前半生

1.2 カリグラの治世

1.3 クラウディウスの治世、そして皇后へ

1.4 ネロの治世、そして最期


2 後世の評価

3 その他

4 系図

生涯
薄幸な前半生

小アグリッピナことユリア・アグリッピナはオッピドゥム・ウビオルム(現在のケルン)で生まれた。当時、父ゲルマニクスはアルミニウスゲルマニア人との戦争の真っ只中であった。ゲルマニクスは16年にゲルマニア総督の任を解かれ、ローマでの凱旋式の後、シリア属州として任地に赴いたが、西暦19年に没した。以来、母アグリッピナのもとで暮らす。

西暦28年、ユリアは最初の結婚をする。相手は帝位継承者の一人、グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブス大アントニアの一人息子で西暦32年コンスル職に就いた)。結婚したものの母が西暦29年にパンダテリア島(現在のヴェントテーネ)に流罪、西暦33年に皇帝ティベリウスより処刑されるなど薄幸な前半生を送った。
カリグラの治世 表面にはアグリッピナの兄カリグラが、裏面には、左からアグリッピナ、妹のユリア・ドルシッラとユリア・リウィッラが彫られたコイン

37年3月16日ティベリウスが死去し、後継皇帝としてカリグラが帝位に就いた。同じ年の12月15日に息子ルキウス・ドミティウス・アヘノバルブス(後のローマ皇帝ネロ)が生まれた。彼女は結婚している身ではあったが、複数の説によると、妹ユリア・ドルシッラと同様にカリグラとは近親相姦の関係だったと言われている。アグリッピナがかなり大っぴらにカリグラの周囲に顔を出していた事は事実ではあるが、この時代の上流階級は、反駁するのが難しいことを理由に、何かあると近親相姦の罪状で告発される事が多かったという事も留意しなくてはならない。小アグリッピナは末妹ユリア・リウィッラとドルシッラの元夫マルクス・アエミリウス・レピドゥス(英語版)と共に兄カリグラの暗殺を企てたとして、カリグラより疎まれるようになり40年にポンティアエ諸島へ流罪にさせられた。
クラウディウスの治世、そして皇后へ

西暦41年にカリグラが暗殺され、父ゲルマニクスの弟クラウディウスが帝位に就く。アグリッピナは流刑地から戻り、裕福な元老院議員のガイウス・サルスティウス・クリスプス・パッシエヌス(英語版)(西暦44年執政官(コンスル))と2度目の結婚をする。夫には数年後に先立たれるが、2度目の結婚で彼女は夫の不動産を手に入れた。

クラウディウスの妻メッサリナが放蕩の末に自殺を命じられると、彼の解放奴隷で一手に帝国業務の雑務を引き受けていたパッラスの手助けにより擁立され、西暦49年に結婚して皇后となる。この結婚の目的は自分の息子ネロを帝位につける事であり、そのためにローマの法律でも禁止されていた親戚関係にあたる叔父のクラウディウスとの結婚を強引に実現した。

クラウディウスは有能な政策家ではあったが、夫としてはあまり威厳がなく、また妻の行動には関心はない(あるいは忙しすぎてできない)男だったので、アグリッピナに言われるままに彼女に「アウグスタ」の称号を与えたりした(それまで、この称号が生前に贈られる事はなかった)。彼女が軍事にまで口を出すので、皇后は皇帝と同じ権威があると勘違いしてしまうケルト人の族長もいたといわれる。

また、この時期に彼女は自分の野心、すなわち息子ネロを皇帝にさせるべく様々な布石を置いている。当時コルシカに島流しになっていたルキウス・アンナエウス・セネカをローマに呼び戻してネロの側近として登用したほか、ネロの軍事的な基盤として近衛軍団に注目し、同じくネロの側近としてブッルスを取り上げた。そして、クラウディウスに働きかけてネロを養子にした反面、クラウディウスの実子ブリタンニクスを孤立化させるなどの陰謀も行った。そして西暦54年、クラウディウスが毒キノコで死去すると、ネロがローマ皇帝となる。クラウディウスの死因については、古代ローマに限らず現代の歴史家も、アグリッピナが暗殺したのではないかとも指摘している。
ネロの治世、そして最期 アグリッピナ(右)とネロが模られた硬貨 アグリッピナとネロが模られた彫像


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:29 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef