尊良親王
『絵本太平記』剣巻(明治16年(1883年))より尊良親王。小林?湖
尊良親王(たかよししんのう[注釈 1])は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての皇族・歌人・上将軍。一品中務卿親王(いっぽんなかつかさきょうしんのう)とも呼ばれる[1]。後醍醐天皇第一皇子。母は二条為世の娘で二条派を代表する歌人の二条為子。瓊子内親王および征夷大将軍宗良親王の同母兄。
嘉暦元年(1326年)、従兄弟に当たる皇太子邦良親王が急逝したため、現任天皇の第一皇子として、父帝の推薦によって次の皇太子候補者に選ばれる。しかし持明院統との政争に敗北し、次の皇太子になったのは量仁親王(のちの光厳天皇)だった。その後は後醍醐後継者の地位こそ、高貴な生母を持ちより政治的資質のある異母弟の世良親王に移るものの、引き継ぎ後醍醐朝の有力政治家として信任され、元徳3年(1331年)1月には一品親王に叙された。
元弘の乱(1331年 - 1333年)では、一度鎌倉幕府に捕縛され土佐国(高知県)に流罪となるも同地から脱出し、九州で旗頭となり鎮西探題を撃滅して、父の幕府打倒に貢献した。さらに、足利尊氏との戦い建武の乱(1335年 - 1337年)では上将軍(名義上の総大将)に抜擢された。父の降伏後も越前国(福井県)で尊氏との戦いを続けるが、金ヶ崎の戦いで高師泰・足利高経(斯波高経)に敗北し、新田義顕(義貞の子)と共に落命。
和歌の正統御子左家二条派の血を母方に引くだけあって歌に優れ、勅撰和歌集『続後拾遺和歌集』に1首・准勅撰和歌集『新葉和歌集』に44首が入集。家集は『一宮百首』(元徳3年(1331年))。明治時代、恒良親王と共に金崎宮(福井県敦賀市)の主祭神となった。
軍記物語『太平記』では、妻の御匣殿との恋愛譚が描かれ、幸若舞『新曲』などの派生作品が作られた。 後醍醐天皇と二条為世の娘二条為子の間に生まれる[2]。日本史研究者の森茂暁によれば、「尊」は父親の諱である尊治からの偏諱であろうという[3]。 確実な生年は不明[1][2]。他の皇子との長幼については、『太平記』『増鏡』では尊良親王が一宮(第一皇子)とされ[1]、さらに『梅松論』も同様である[4]。森は、尊良が一宮であることはまず間違いないのではないか、と主張している[3]。 自害時数え27歳とする説があり、そこから逆算すると応長元年(1311年)生まれとなるが、この説を採ると延慶元年(1308年)生まれの異母兄弟の護良親王の方が兄となる[1]。しかし、森によれば、数え27歳説は『系図纂要』および「南朝紹運録
生涯
誕生
結局、尊良の生年を示す確実な史料はないものの、日本史研究者の平田俊春は徳治年間(1306年 - 1308年)ごろではないか、と大雑把に推測しており、森も平田説に同意する[6]。
皇太子選尊良親王が自刃した地とされる金ヶ崎城跡の尊良親王陵墓見込地
幼少時は、後醍醐天皇側近「後の三房」の一人で学識深い吉田定房に養育された[7]。嘉暦元年(1326年)に元服し、中務卿に任じられ、二品に叙された[2]。
同年、大覚寺統正嫡で従兄弟に当たる皇太子邦良親王が急逝[8]。現任の天皇の第一皇子として、次の皇太子の有力候補と目され、同じ大覚寺統の邦省親王(邦良の同母弟)・恒明親王(後醍醐祖父である亀山天皇の愛息)、および持明院統の量仁親王(のちの光厳天皇)と共に選挙戦に出馬した[8]。しかしこの政争に敗北し、最終的に選ばれたのは量仁だった[8]。
その後は、より高貴な生母を持ち、聡明さにおいても優り、さらに恒明派からの支援も得た異母弟の世良親王の方が後醍醐の後継者と目されるようになった[9]。
とはいえ、これで父子の仲が特に悪くなった訳ではなく、引き続き朝廷の有力政治家として活躍した。元徳3年(1331年)1月には一品に叙任された。そのため、一品中務卿親王と称された[1]。 元弘元年(1331年)に発生した元弘の乱では父と共に笠置山に赴いたが、同城が落ちる前に楠木正成の立てこもる下赤坂城に移った[2]。
元弘の乱