尊子内親王
[Wikipedia|▼Menu]

尊子内親王
続柄
冷泉天皇第二皇女

全名尊子(そんし)
身位二品・内親王
出生康保3年(966年

死去永観3年5月2日985年5月24日)(享年20)

配偶者円融天皇
父親冷泉天皇
母親藤原懐子
テンプレートを表示

尊子内親王(そんしないしんのう、康保3年(966年) - 永観3年5月2日985年5月24日))は、第63代冷泉天皇の第2皇女。母は女御藤原懐子賀茂斎院、のち第64代円融天皇[1]。別名火の宮、承香殿女御。同母弟に花山天皇
経歴

康保4年(967年)、父・冷泉天皇即位により内親王宣下。康保5年(968年)7月、斎院に卜定、12月に初斎院に入る。天禄元年(970年)、紫野斎院に入る。天延3年(975年)、母・懐子が没したため退下。貞元3年(978年)、四品に叙される。天元3年(980年)10月、叔父・円融天皇の勧めで入内。翌11月、内裏焼亡。天元4年(981年)、二品に昇叙。天元5年(982年)、叔父・藤原光昭の死去により内裏を退出して落飾。永観3年(985年)4月に受戒ののち、同年5月没。享年20。

尊子内親王は『栄花物語』によれば「いみじう美しげに光るやう」な姫宮であったといい、摂関家嫡流を外戚に何不自由ない将来を約束されていたが、外祖父・藤原伊尹や母・懐子、そして叔父たちまでも次々と早世したために有力な後見を失ってしまう。また円融天皇の妃となった際も、入内直後に大火があったため世間から「火の宮」(内親王の皇妃を「の宮」と呼ぶのに掛けたあだ名)と呼ばれるなど、高貴な生まれにもかかわらず不運の連続だった。それでも円融天皇は尊子内親王を可愛らしく思い寵愛したというが、唯一の頼りであった叔父・光昭の死を期に、内親王は自ら髪を切り落として世を捨ててしまう。その後、漢学者・源為憲が内親王のために『三宝絵』を著して進呈し、また没する際には慶滋保胤が四十九日供養の願文を自らしたためて、若くして出家・他界した尊子内親王の慎ましい人柄を偲んだ。
脚注^ 正史である『日本紀略』や『一代要記』には尊子内親王を女御とする記述はなく、このことから尊子内親王がであったとする説による(小松登美「妃の宮考」跡見学園短期大学紀要7・8集、1971年)。










内親王(飛鳥時代 - 江戸時代)
大宝律令施行(701年)以後で、内親王と公称した人物とする。
飛鳥時代

泉内親王

御名部内親王

水主内親王

田形内親王

託基内親王

但馬内親王

泊瀬部内親王

氷高内親王

吉備内親王

奈良時代

安倍内親王

阿倍内親王

井上内親王

衣縫内親王

坂合部内親王

酒人内親王

難波内親王

能登内親王

不破内親王

平安時代

滋野内親王

ワ子内親王

慧子内親王

朝原内親王

惇子内親王

包子内親王

識子内親王

孟子内親王

敦子内親王

安勅内親王

大井内親王

善原内親王

紀内親王

甘南美内親王

晏子内親王

伊都内親王

氏子内親王

有智子内親王

英子内親王

婉子内親王

延子内親王

大原内親王

大宅内親王

聡子内親王 (後三条天皇皇女)

佳子内親王 (後三条天皇皇女)

嘉子内親王

雅子内親王

官子内親王

儀子内親王

喜子内親王

休子内親王

恭子内親王

勤子内親王

都子内親王

修子内親王

普子内親王

均子内親王

覲子内親王

君子内親王

柔子内親王

依子内親王

孚子内親王

誨子内親王

季子内親王

成子内親王 (宇多天皇皇女)

綏子内親王

長子内親王

儼子内親王

池上内親王

慶子内親王

馨子内親王

潔子内親王

?子内親王

妍子内親王

娟子内親王

功子内親王

好子内親王

高津内親王

春日内親王

高志内親王

因幡内親王

安濃内親王

賀楽内親王

酒人内親王

眞子内親王 (仁明天皇皇女)

脩子内親王

?子内親王

述子内親王

恂子内親王

昌子内親王

宗子内親王

光子内親王 (冷泉天皇皇女)

章子内親王

上毛野内親王

石上内親王

叡奴内親王

韶子内親王

頌子内親王

有子内親王

貞子内親王


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:27 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef