尊号一件
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尊号一件(そんごういっけん)は、日本江戸時代後期に朝廷江戸幕府との間に発生した、閑院宮典仁親王への尊号贈与に関する紛議事件である。尊号事件ともいう。
概要

             
         
114
中御門天皇     閑院宮直仁親王

                      
          
115 桜町天皇     典仁親王 (慶光天皇) 倫子女王 鷹司輔平

                   
          
117 後桜町天皇 116 桃園天皇 美仁親王 119 光格天皇

                 

    118 後桃園天皇     120 仁孝天皇

                         
          
            桂宮淑子内親王 121 孝明天皇 和宮親子内親王

                   

                122 明治天皇

                     

第119代・光格天皇は典仁親王の子であったが、後桃園天皇崩御したときに皇子がいなかったためにその養子となって即位したことにより、父よりも位が上になってしまった。しかも禁中並公家諸法度における親王の序列が摂関家よりも下であり、天皇の父が臣下である摂関家を目上としなければならないことに対しても天皇は不満を抱いた。だが、禁中並公家諸法度は江戸幕府にとっては初代将軍徳川家康が定めた祖法であり、その改正は幕府の威厳を傷つけるものとして拒絶してくることは目に見えて明らかであった。そこで光格天皇は典仁親王に対して太上天皇(上皇)の尊号を贈ろうとした。
経過

1788年天明8年)に公家中山愛親らが幕府に通達すると、老中松平定信皇位についていない人間に皇号を贈るのは先例のない事態として反対する。朝廷では徳川時代以前の古例を持ち出し、朱子学を正当とする定信と対抗し、朝幕間の学問的論争に発展する。1791年寛政3年)12月、天皇は「群議」を開き、参議以上40名の公卿のうち35名の賛意を得て尊号宣下の強行を決定する。
収束

この事態を憂慮したのは、前関白で典仁親王の実弟(天皇からみて叔父)でもある鷹司輔平であった。輔平はこのままでは朝廷と幕府の全面対決を招いて典仁親王の身にも危険が及ぶと考え、定信に事の次第を告げて尊号を断念させる代わりに、典仁親王の待遇改善を求めた。定信は大政委任論を根拠に天皇に代わって幕府が公家を処分できると主張して中山愛親・正親町公明らの公家に処分を下し、また九州で活動していた勤皇家高山彦九郎を処罰した。勤皇派の水戸徳川家が定信に賛成すると、輔平と後桜町上皇の説得を受けて天皇も渋々尊号一件から手を引いた。定信も典仁親王に1,000の加増をする等の待遇改善策を行うことで尊号の代償とした。

だが「皇位についていない人間に皇号を贈る例」は後高倉院後崇光院という先例が存在している。むろん碩学の定信も承知のことであり、これについては「承久の乱正平の一統(南北朝の戦い)という非常事態が生んだ産物で、太平の世に挙げる先例ではない」と述べている。定信は寛政の改革によって幕藩体制の再建を進めていく中で、その思想的根幹である朱子学を保護して「寛政異学の禁」や「処士横議の禁」を打ち出していた。朱子学は儒教の中でも大義名分や主君への「」、「君臣の別」を重んじる学派であり、特に日本では本来儒教が徳目として最も重んじていた「」以上に重要視された。この問題は言うなれば「忠」と「孝」の衝突であり、陽明学古学尊王論などの反朱子学的な(反幕藩体制につながりかねない)動きを抑圧するために強硬策を採ったことも考えられるのである。

また、同時期に11代将軍・徳川家斉は、実父の一橋治済に対して「大御所」の尊号を贈ろうとしていたが、定信は朝廷に対して尊号を拒否している手前、将軍に対しても同様に拒否をせざるをえなくなった。定信にとって治済は、御三卿のひとりとして将軍位を狙える立場にあった自分を、白河藩へと放逐した政敵であり、治済が大御所として権力を掌握することに危機感を抱いていた。定信としては治済の大御所就任を阻止するためにも、典仁親王への太上天皇宣下を拒否すべき立場であった。しかしこれにより家斉の不興を買った定信は、後に失脚することとなる。

更に天明の京都大火後の内裏再建の際に、財政問題などを理由とする定信の反対論を押し切る形で朝廷が古式に則った内裏再建を行い、結果として幕府が莫大な出費をすることになったことも、定信の朝廷に対する不信感を強める一因になったと言われている。
その後

尊号一件については、早くから勅使として江戸に下った中山愛親が江戸城の家斉の前で堂々たる抗議をしたという伝説が生まれ、『反汗秘録』『中山東下記』『中山伝記』といった小説が密かに書かれている(共に事件よりあまり隔たらない時期の成立と見られる)。寛政異学の禁などで思想統制を行った定信だが、庶民の間での風聞には無関心であり、これについては何ら統制を行わなかった[注釈 1]。庶民に対しても厳しい倹約策を行った定信が失脚すると、中山の伝説は定信失脚のきっかけと捉えられてますますこの風潮が強まった[2]。こうした小説には荒唐無稽な記述が含まれるものの、当時の朝廷や幕府の内情を取材したと思われる記述も含まれ、中には皇統や朝幕関係の歴史から話を始めるものや、鷹司輔平や松平信明(定信の後任の老中首座)を糾弾するもの、定信と対立するという風説のあった岡山藩主池田治政[注釈 2]を登場させたり、水戸徳川家の勤皇ぶりが強調されたりしたものなど、当時の朝廷や幕府の実情を取り入れながら様々な展開が行われている[4]。田中暁龍によれば、こうした書物は同名の異本を含めると103種類の作品が現存している[5]

定信の失脚後も尊号の件は認めなかったものの、光格天皇の姪にあたる閑院宮家の宣子女王を天皇の猶子にする件や禁裏(譲位後は院御所)から閑院宮家に経済支援を行う件に関しては、幕府は条件を付けながらも基本的には光格天皇(上皇)の意向をほぼ認めており、天皇も譲位直前に家斉に対して御衣とともに幕府が多くの神事や公事の再建に協力してくれたことを感謝する書状を送っている(『山科忠言卿伝奏記 四』文化14年(1817年)3月15日条)など、光格天皇と江戸幕府の関係は良好なものであったという[6]


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