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将軍(しょうぐん)は、比較的大きな軍隊の指揮官に与えられる官職および称号の一つ、また軍閥の指導者の地位でもある。称号としての将軍を将軍号ともいう。
古くから東洋における軍隊の指揮官の役職名の一つであった。外交上または軍隊内の敬称としては閣下が用いられる。なお、古代中国では「将軍は皇帝に任命された官職」「将は王侯や地方領主に任命された官職」と区別されている。 将軍は中国において発祥した語であるが、その意味は文字通り、「軍を将(ひき)いる」ことであり、軍勢を指揮する司令官の官名として使用されたのがはじまりである。その用例は古くは春秋時代にまで確認することができる。後に「司馬」に代わって軍隊の指揮官の名称として用いられるようになる。漢では将軍職は常設ではなく、臨時の官として任ぜられた。 4世紀?6世紀には、高句麗・百済・新羅・倭などの諸国が中国王朝(南朝宋ほか)と外交を結び、より位階の高い将軍号を求めて競い合った。 武官への将軍号の加官は前漢以降に顕著となる。秦代以前は大将軍、前将軍、左将軍、右将軍、後将軍、偏将軍、稗将軍程度であった。前漢の武帝以降に驃騎将軍、車騎将軍、衛将軍といった高い地位をもつ「重号将軍
語源
中国歴代王朝における将軍号の序列
上段の称号ほど、また左側の称号ほど、格上となる[1]。
南朝宋における将軍号の序列(五品まで)品秩将軍号 3世紀?7世紀に中国王朝と外交交渉を持った東アジア諸国は、国主に対して「王」号とともに、(1)軍事指揮官としての管轄領域の広さ、(2)将軍号の格付けなどに関して、より上位の称号を求めてせめぎ合った。 (2)3世紀?7世紀の中国歴代政権は、中国の軍事指揮官に授与するのと同一カテゴリーの将軍号を、近隣諸国・諸民族の君主たちに授与した。 東アジア各国における将軍号のランク上昇の事例国名将軍号の上昇 4世紀?6世紀、中国の周辺諸国では、君主の代替わりごとに中国に使者を派遣し、君主に所属する「王号・軍事指揮官としての管轄領域・将軍号」等のセットについて更新し、また配下の豪族・官僚のための「将軍の称号」と「幕府(=将軍府)に所属する文官の称号」を求め、それを配下に分配することにより、国内を統制しようとした[2]。(→府官制) 倭・百済・高句麗・新羅等が中国に送った国書の中には「仮授?」または「私署?」と称して、君主とその配下に授与を希望する称号が列挙提示されているのを確認できるものが見られる。
一品大将軍
二品驃騎・車騎・衛、諸大将軍
三品四征(征東・征南・征西・征北)
四鎮(鎮東・鎮南・鎮西・鎮北)
中軍・鎮軍・撫軍
四安(安東・安南・安西・安北)
四平(平東・平南・平西・平北)
前・左・右・後
征虜・冠軍・輔国・龍驤
四品左衛・右衛・驍騎・遊撃
左軍・右軍・前軍・後軍
寧朔
建威・振威・奮威・揚威・広威
建武・振武・奮武・揚武・広武
五品積射・彊弩
鷹揚・折衝・軽車・揚烈・寧遠・材官・伏波・凌江
3世紀?7世紀東アジア諸国による中国王朝授与の将軍号の序列
(1)管轄領域について: 「都督◯◯諸軍事」 ◯◯に管轄する地域名称が入る。
「都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事」(「倭の五王」の一部が「仮授」(=自称)した管轄領域)
「都督百済諸軍事」(歴代百済王が除正された管轄領域)
「都督営州諸軍事」(高句麗長寿王が413年に宋から「除正」された管轄領域)
高句麗(南朝授与)征東将軍→征東大将軍→車騎大将軍→撫軍(東)大将軍→寧東将軍
(北朝授与)征東将軍→車騎大将軍→安東将軍→驃騎大将軍→大将軍
百済 鎮東将軍→鎮東大将軍
倭 安東将軍→安東大将軍→鎮東大将軍→征東大将軍
加羅 輔国将軍
吐谷渾 征西将軍
4世紀?7世紀に倭・百済・高句麗・新羅・渤海の王と臣下たちが受けた将軍号