将軍達の反乱
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「アルジェ一揆」はこの項目へ転送されています。1958年に勃発し、フランスが第四共和国から第五共和国へ移行する端緒となったコロンピエ・ノワール)による反乱については「アルジェ動乱」をご覧ください。

将軍達の反乱

1961年4月21日 - 4月26日
場所フランス領アルジェリア
結果クーデター失敗

衝突した勢力
 フランス フランス軍内部の国粋主義勢力(4人組の老将)
指揮官
シャルル・ド・ゴール
ミシェル・ドブレモーリス・シャール
エドモン・ジュオー
アンドレ・ゼレール
ラウル・サラン
戦力
フランス軍第1外人落下傘連隊
フランス空軍空挺コマンドー第00/541任務部隊

将軍達の反乱(しょうぐんたちのはんらん、フランス語: Putsch des Generaux)あるいはアルジェ一揆(アルジェいっき、フランス語: Putsch d'Alger)は、1961年に当時フランス領だったアルジェリア(後のアルジェリア民主人民共和国)で発生したクーデター未遂事件。

シャルル・ド・ゴール大統領のアルジェリア政策に反対するフランス軍の退役将軍4人とその協力勢力が、アルジェリアの首都アルジェを拠点として反乱を計画し、軍事政権の樹立を目指したものである。反乱はアルジェリア戦争只中の1961年4月21日午後から26日まで続いたが、結局失敗に終わった[1]
背景

1830年フランス軍によるアルジェリア占領の後、1848年にはフランス領アルジェリアとしてフランス行政府が設置された。フランス領アルジェリアでは、ピエ・ノワール(ヨーロッパ系植民者)や同化の元に市民権を付与されたユダヤ教徒、そして一部のムスリム以外は激しい差別の対象とされた。1945年第二次世界大戦が終結すると、民族自決の思想が世界中の植民地に広まり、宗主国フランスに対する反発が徐々に顕在化し始めた。1946年に勃発した第一次インドシナ戦争でフランス軍はベトミンに敗北し、1954年ジュネーヴ協定によってインドシナ4国は正式に独立した。在アルジェリア仏軍をはじめとするフランス軍やピエ・ノワールは「フランス植民地帝国」の衰退を警戒視し「フランスのアルジェリア」政策を強く支持していた。

1954年11月1日に発生したアルジェリア民族解放戦線 (FLN) の蜂起を引き金にアルジェリア戦争が勃発した。フランス政府は大規模な部隊を派遣して鎮圧を試みたが、FLNによる爆弾テロなどのゲリラ攻撃が頻発し戦争は泥沼化した。ピエール・マンデス=フランス首相がアルジェリア独立を容認する姿勢を見せると、ピエ・ノワールや在アルジェリア仏軍の間で不穏な空気が醸成されていった。

1958年5月に在アルジェリア仏軍は行政府を掌握し軍政を開始した。アルジェリアから派遣された落下傘部隊がコルシカ島を無血占領し、さらにパリを占領すると脅しをかけた。パリの通りでは左派・右派のデモ隊が衝突しフランス本国の社会も大混乱に陥った。権威を喪失した第四共和制の指導的政治家たちは軍部との妥協案として、下野していたシャルル・ド・ゴール将軍を元首に据えて憲法改正を含む改革を行うことを決定した。こうして第五共和制が成立した。

フランス軍はド・ゴールが断固としてアルジェリア支配を継続すると期待していたが、ド・ゴールは民族自決の流れに逆らうことは不可能であると考えていた。1960年にド・ゴールはアフリカの多くの植民地を独立させ、この年は後に「アフリカの年」として知られるようになった。1961年1月8日に行われた国民投票では、フランス国民の大半がアルジェリアの民族自決に賛成した。この結果を見たミシェル・ドブレ内閣はFLNの政治部門であるアルジェリア共和国臨時政府 (GPRA) と秘密交渉を開始した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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