将軍山城
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logo将軍山城
京都府
本丸跡に建つ幸龍大権現の社
別名勝軍地蔵山城、北白川城、東山御城、瓜生山城、瓜生城
城郭構造山城
天守構造なし
築城主細川高国
築城年永正17年(1520年
主な改修者内藤彦七、足利義晴明智光秀
主な城主細川高国、足利義晴、明智光秀
廃城年不明(1570年(元亀元年)後か)
遺構曲輪空堀土塁虎口[注 1]、等
指定文化財なし
再建造物なし
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度2分22.636秒 東経135度48分10.145秒 / 北緯35.03962111度 東経135.80281806度 / 35.03962111; 135.80281806
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将軍山城(しょうぐんやまじょう)は、京都府京都市左京区北白川清沢口町(山城国愛宕郡)の瓜生山(標高301メートル)にあった戦国時代日本の城山城)。別名北白川城(きたしらかわじょう)、瓜生山城(うりょうさんじょう)、勝軍地蔵山城(しょうぐんじぞうやまじょう)とも呼ばれている。
概要

将軍山城は瓜生山の山頂を本丸とし、近江より上洛する際の前線基地としての役割をもっていた。『ニ水記』(永正17年(1520年)5月30日条)によると、細川高国が初めてこの城に陣を構え、その際戦勝を記念して将軍地蔵を勧請したのが城名の由来となった。将軍地蔵宝暦12年(1762年)に現在の日本バプテスト病院の西側(左京区北白川瓜生山町)に移転されて、信仰の対象とされている。
沿革本丸にある将軍地蔵の石室

この城の初見は永正17年(1520年)である。越水城の合戦で敗れた室町幕府管領細川高国は京都を離れ近江園城寺に逃亡していたが、近江守護六角定頼丹波守護代内藤貞正の援軍を得て、同年5月2日、初めてここに陣を構えた。

桂川原の戦いで高国が再び近江へ逃亡すると、将軍山城は六角定頼の援助のもと被官内藤彦七が城主となっていたが、大物崩れ享禄4年6月6日1531年7月19日)に高国が自害すると、隣にある東山新城と共に細川晴元軍に奪取された。

天文15年(1546年になると第12代将軍足利義晴と細川晴元が対立するようになり、義晴自身がこの城を大幅改修した。城に普請人夫を徴発したり、太さ五、六を命じたことが、様々な史料から確認できる。「当城はその修築の際に要した労働力や資材の調達を文献で裏づけることができる稀有の中世城郭である。幕府は当城の修築のため、洛中・洛外の寺社や権門を通じて京都近辺の人夫をほとんど総動員の形で徴発したものと思われる」とし、戦国時代の修築方法を古文献で知ることが出来る珍しい城であると解説されている[1]

修築をした将軍山城であったが、翌天文16年3月30日1547年4月20日)、義晴は征夷大将軍を息子の足利義輝に譲り自らは大御所となり、晴元を討つために洛中の細川氏綱近衛稙家らと結んで父子共々ここに籠城するものの、晴元の家臣三好長慶軍が同年7月12日、相国寺に2万の軍勢で陣をはり周辺地域を焼き討ちした。同月19日、足利軍は将軍山城を自焼させ、義晴・義輝父子は近江坂本へ脱出した。この時の状況は舎利寺の戦いも参照。

その後幕府は軍勢の拠点を中尾城霊山城へ移した為、将軍山城は部分的にしか使用されなかった。
将軍地蔵山の戦い

将軍地蔵山の戦い
戦争:
攻城戦
年月日:永禄4年(1561年11月24日
場所:将軍山城周辺
結果:六角義賢畠山高政連合軍の勝利
交戦勢力
六角義賢三好長慶
指導者・指揮官
細川晴之
六角義賢
蒲生賢秀
永原重澄三好義興
松永久秀


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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