射水神社
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この項目では、富山県高岡市古城に鎮座する「射水神社」について説明しています。富山県高岡市二上に鎮座する「射水神社」については「二上射水神社」をご覧ください。

越中総鎮守射水神社

射水神社 拝殿
所在地富山県高岡市古城1-1
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯36度44分54.7秒 東経137度1分16.8秒 / 北緯36.748528度 東経137.021333度 / 36.748528; 137.021333座標: 北緯36度44分54.7秒 東経137度1分16.8秒 / 北緯36.748528度 東経137.021333度 / 36.748528; 137.021333
主祭神瓊瓊杵尊
社格式内社名神大または小)
越中国一宮
国幣中社
別表神社
創建不詳
本殿の様式神明造
別名射水神社
例祭4月23日
地図.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}射水神社
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射水神社 鳥居射水神社 境内
高岡古城公園にある前田利長像前から見た射水神社の境内。

射水神社(いみずじんじゃ)は、富山県高岡市高岡古城公園内にある神社登記上の宗教法人名称は越中総鎮守射水神社(えっちゅうそうちんじゅいみずじんじゃ)。式内社名神大社または小社)、越中国一宮旧社格国幣中社で、現在は神社本庁別表神社神紋は祭神の瓊瓊杵尊にちなみ「稲穂」。
祭神

瓊瓊杵尊 (ににぎのみこと)

歴史的には、伊彌頭国造(いみづのくにのみやつこ)の祖神とされる二上神(ふたがみのかみ)であった。二上神は二上山(ふたがみやま)山麓の二上射水神社に祀られている。
歴史
創建から江戸時代

創建は奈良時代以前のこととされる。社伝によれば、当神社は二上山を神奈備とし、太古よりその麓に鎮座していたが、養老元年(717年)に行基が勅を受けて二上山麓に別当寺を建立し、二上神を二上権現と称して祀ったのだと言う。別当寺は山号を「二上山」、寺号を「養老寺」と言い、二上山全体を境内として社地殿閣広大であったと伝えられている。しかし、『日本の神々 -神社と聖地- 8 北陸』[1]によれば、この養老元年開基説については疑問を呈する向きが多いと言う。

当神社は二上神の名で度々六国史に登場し、神階の陞叙を受けている。以下は時系列的に並べた神階の授与である。

宝亀11年(780年)12月14日条、越中国射水郡の二上神を従五位下に叙す(『続日本紀』)。

延暦14年(795年)8月18日条、越中国の二上神を従五位上に叙す(『日本後紀』)[2]

承和7年(840年)9月29日、越中国射水郡の二上神を従四位下から従四位上に陞叙する(『続日本後紀』)。

斉衡元年(854年)3月7日、越中国の二上神に従三位を加える(『日本文徳天皇実録』)。

貞観元年(859年)1月27日、越中国の二上神を従三位から正三位に陞叙する(『日本三代実録』)。

いずれの陞叙も高瀬神社と同時・同階で、共に越中国最高位の神社として朝野の崇敬を受けていた。『日本文徳天皇実録』斉衡元年(854年)12月27日の条では、二上神の禰宜(ほうり)が把笏に預かったことが記載されているが[3]、『日本の神々 -神社と聖地- 8 北陸』[1]によれば、古代に笏を把ることを許されたのは伊勢神宮と諸大社の神職のみであったと言う。

8世紀後半に成立したと言われる『万葉集 巻17』には、大伴家持によって当神社を詠んだ和歌[4]が収録されている。

千妙聖人が著述したものに、長寛元年(1163年)白山中宮の長吏隆厳が私注を加えて成立したと伝えられる『白山之記』[5]には、聖武天皇の治世である神亀年間に越中国から能登国が分立した際[6]、越中国二宮であった当神社が一宮になったこと、その後、越中国に新気多(気多神社)が奉祝されると、新気多と当神社の間に一宮争いが起こり、当神社が無力の間に新気多が一宮になった、との記事がある。


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