専修寺
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この項目では、三重県と栃木県の寺について説明しています。その他の用法については「専修寺 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

専修寺(せんじゅじ)は、浄土真宗10派のうちの一つである真宗高田派寺院。本寺専修寺と本山専修寺がある。本山の住職が本寺の住職を兼任している。「専修寺」の名の由来は浄土系宗派の特徴である専修念仏に基づいている。
本寺専修寺

専修寺
所在地
栃木県真岡市高田1482
山号高田山
宗派真宗高田派
寺格本寺
本尊善光寺式阿弥陀三尊(一光三尊仏)
創建年嘉禄元年(1225年
開山親鸞聖人
別称本寺専修寺
文化財如来堂、御影堂、楼門、総門など(重要文化財
公式サイト真宗高田派 本寺専修寺
法人番号5060005002898
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本寺専修寺 御影堂

専修寺(せんじゅじ)は、栃木県真岡市高田にある真宗高田派の本寺の寺院山号は高田山。本尊善光寺式阿弥陀三尊(一光三尊仏)。本寺専修寺と呼ばれている。
歴史

嘉禄元年(1225年)、浄土真宗の開祖である親鸞が、関東各地の教化に入って十余年、真岡城主大内国行の懇願により建てられた寺院と伝えられる。また、『親鸞聖人正統伝』によれば親鸞が「般舟石(はんじゅせき)」の上で野宿をしていた時に、童子の姿をした明星天子が現れてこの地に寺院を建立するようにいったという。その際、信濃国善光寺の本尊である秘仏を模した善光寺式阿弥陀三尊(一光三尊仏)を善光寺より迎えて本尊とした。その為、親鸞が建立した唯一の寺だとされている。その後、二十四輩の第二番であり、親鸞門弟の有力者の一人であった真仏が管理に当たっていたものと推定されている。

翌嘉禄2年(1226年)には、後堀河天皇から「専修阿弥陀寺」という勅願寺綸旨を受け、親鸞の教化活動は遊行から本寺中心に変わり、建立後約7年間この寺で過ごしたとしている。このように、本寺は東国における初期の浄土真宗の教団活動上重要な役割を果たした寺である。真仏を中心とした門徒衆は、関東各地の門徒が作る教団の中で最も有力な教団「高田門徒(現・真宗高田派)」を形成し、京都へ帰った親鸞からしばしば指導の手紙や本人が書き写した書物などが送られている。

同じ浄土真宗の教団の中では、大谷廟堂(後の本願寺)が応長2年(1312年)に「専修寺」の額を掲げたが、延暦寺の反対により撤去している。長らく衰微していたものの15世紀半ばごろに本願寺第8世蓮如によって「本願寺教団」として急速に勢力を拡大していった。また、三門徒派専照寺も建立当初は「専修寺」と号していた[1]。当寺が「専修寺」を名乗り始めたのは室町時代のようである。

専修寺を再び飛躍させたのが、東海北陸方面に教化を広めた第10世真慧(しんね)であった。真慧は下野国の有力領主であった宇都宮正綱の庇護を受け、その子である宇都宮成綱塩谷孝綱兄弟も真慧没後の住持不在時にもこれを手厚く保護している[2]。また、この頃に専修寺は延暦寺東塔の末寺となっている。

だが、永正9年(1512年)10月に真慧が亡くなると、真慧の妻の連れ子である応真(富樫政親の子)派と、常盤井宮家出身の養子である真智(後柏原天皇の猶子)派で争いが勃発する。その最中、本寺専修寺は大永6年(1526年)に兵火によって炎上し、荒廃した。その為に真慧が伊勢国に建てた一身田無量寿院が本山とされ、本山専修寺となっていった。

本寺専修寺の伽藍は江戸時代に入って再建され、本尊の一光三尊仏は今もここに安置されている。

本寺専修寺の北東約200mの場所に当寺ゆかりの「般舟石」があり、また、南東およそ2kmの所に、専修寺造営中に親鸞が仮住居としていたと伝えられる「三谷草庵」が復元されている。
境内

如来堂(
重要文化財) - 本堂。元禄14年(1701年)再建。浄土真宗の阿弥陀堂建築としては特異な形である。

御影堂(重要文化財) - 寛保3年(1743年)再建。間口23.71m、奥行20.07mで、栃木県内の堂宇としては輪王寺三仏堂に次ぐ大きさである。

太子堂 - 江戸時代初期に現在地に移転する。

鐘楼 - 嘉永2年(1849年)再建。

鼓楼 - 弘化3年(1846年)再建。太鼓は名古屋来迎寺の門徒が天保13年(1842年)に寄進したもの。

御成門


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