封じ込め政策
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米海軍潜水艦潜望鏡を通して見た核爆発。1962年

封じ込め(ふうじこめ、Containment)とは、アメリカ合衆国の政策であり、海外の共産主義の拡大を阻止すべく、多くの戦略が用いられた。冷戦の構成要素たるこの政策は、東欧中国朝鮮ベトナムにおける共産主義の影響拡大を図るソビエト連邦による一連の動きへの反応であり、デタント巻き返しの中間的立場を代表していた。ドクトリンの基礎は、米国の外交官ジョージ・ケナンによる1946年の電報で明示された。米国の外交政策用語としてのこの単語の起源は、ジェームズ・フォレスタル国防長官にケナンが提出した1947年の報告(のちに雑誌記事に使用)に遡る。この語は、1920年代のソ連に対する西側の政策を記述するのに用いられたフランス語「cordon sanitaire(防疫線)」の訳語である。

「封じ込め」の語は、アメリカと西ヨーロッパ諸国による北大西洋条約の締結・北大西洋条約機構(NATO)の設立や相互防衛協定など、ハリー・S・トルーマン及び共和党の政策と最も関連している。ドワイト・D・アイゼンハウアーは、これと対立するドクトリンである巻き返し政策を弄したが、1956年ハンガリー動乱への介入については拒絶した。リンドン・ジョンソンは、ヴェトナム政策正当化のために「封じ込め」の語を用いた。

リチャード・ニクソンヘンリー・キッシンジャー最高顧問と共に、ソ連及び中国との友好関係に賛同し、封じ込めを拒絶した。こうしたデタント(または緊張緩和)の例としては、貿易や文化交流の拡大などがあった。ジミー・カーター反共よりも人権を強調したが、1979年にソ連がアフガニスタンに侵攻すると、デタントをやめて封じ込めに回帰した。ロナルド・レーガンはソ連を「悪の帝国」と非難して冷戦を拡大し、ニカラグアアフガニスタンで巻き返しを推し進めた。封じ込め政策下で始まった中心的計画(NATOや核抑止力など)は、冷戦終結後も効力を保った。
目次

1 歴史

1.1 背景

1.2 起源(1944年 - 1947年)

1.3 ハリー・トルーマン(1945年 - 1953年)

1.4 日本

1.5 朝鮮

1.6 ダレス

1.7 ヴェトナム

1.8 ロナルド・レーガン(1981年 - 1989年)


2 脚注

3 関連文献

4 関連項目

歴史
背景

1917年ロシア共産革命が起こると、西側首脳らは世界革命の推進を願っているらしいボリシェヴィキ政府の孤立化を図った。1919年3月、フランスジョルジュ・クレマンソー首相は「防疫線 (cordon sanitaire) 」または「非共産主義国の輪」を標榜してソ連を孤立させた。ウッドロウ・ウィルソン米国大統領はこの表現を訳して「隔離 (quarantine)」と呼んだ。いずれの表現も、共産主義を伝染病になぞらえている。にもかかわらず、第二次世界大戦中、米ソは共に連合国として枢軸列強に対抗した。
起源(1944年 - 1947年)

終戦が近付くと、国務省幹部はソ連に対する不満と疑念を募らせた。モスクワ駐在の米国大使エイヴリル・ハリマンは、かつては米ソ関係に関して「確信的楽観主義者」であった[1]が、1944年のワルシャワ蜂起におけるソ連の「裏切り」や、ポーランドに関する1945年2月のヤルタ協定違反に幻滅した[2]


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