寿福寺
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この項目では、神奈川県鎌倉市にある寿福寺について説明しています。その他の同名の寺院については「寿福寺 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

寿福寺

山門
所在地神奈川県鎌倉市扇ヶ谷1-17-7
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度19分27秒 東経139度32分56.5秒 / 北緯35.32417度 東経139.549028度 / 35.32417; 139.549028 (壽福寺)座標: 北緯35度19分27秒 東経139度32分56.5秒 / 北緯35.32417度 東経139.549028度 / 35.32417; 139.549028 (壽福寺)
山号亀谷山[1](きこくさん)
宗派臨済宗建長寺派
寺格鎌倉五山三位[1]
本尊釈迦如来
創建年1200年正治2年)[2]
開山栄西[1]
開基北条政子[2]
正式名亀谷山 寿福金剛禅寺[2]
札所等鎌倉三十三観音 第24番
鎌倉二十四地蔵 第18番
文化財木造地蔵菩薩立像(鎌倉国宝館に寄託)・銅造薬師如来坐像・喫茶養生記(重文)
法人番号1021005001897
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仏殿とビャクシン北条政子の墓釈迦三尊像

寿福寺(じゅふくじ)は、神奈川県鎌倉市扇ガ谷にある臨済宗建長寺派寺院である。正式には亀谷山寿福金剛禅寺(きこくさん じゅふくきんごうぜんじ)と号する。鎌倉五山第三位の寺院である[2]。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は北条政子、開山(初代住職)は栄西である。鎌倉三十三観音霊場の第24番。鎌倉二十四地蔵の第18番。境内は「寿福寺境内」として、国の史跡に指定されている。
歴史

源頼朝が没した翌年の1200年正治2年)、妻の北条政子が葉上房栄西(明菴栄西)を開山に招いて創建した。

もともと現在の寿福寺のある付近は、奥州に向かう源頼義が勝利を祈願したといわれる源氏山を背にした、亀ヶ谷と呼ばれる源氏家父祖伝来の地であり、頼朝の父・源義朝の旧邸もこの地にあった[3]1180年(治承4年)初めて鎌倉入りした頼朝は、ここに館(幕府)を構えようとしたが、すでに岡崎義実が堂宇を建て義朝の菩提を弔っていたことや、土地が狭かったため、当初の計画を変更したといういきさつがある[4]

創建当時は七堂伽藍を擁し、14の塔頭を有する大寺院で、禅刹として体裁を整えたのは1278年(弘安元年)頃と推定されている。1247年(宝治3年)に火災にあい、1258年(正嘉2年)の火災では一宇を残さぬまで焼失している[2]。これらの復興は、伝実朝墓五輪塔などの存在から、おそらく南北朝時代の頃と思われる。

寿福寺には2世退耕行勇をはじめ、心地覚心円爾(弁円)、蘭渓道隆大休正念など、多くの名僧が入寺した。鎌倉の禅宗文化を考える上で、重要な存在の寺院である。

鎌倉初期に高い寺格をもって繁栄したが、「海道記」や「東関紀行」の作者は、寿福寺についてふれるところがない。
境内

総門、中門、仏殿、庫裏(くり)、鐘楼などが建つ。仏殿は1664年(寛文4年)の再建である。

境内裏手の墓地には、陸奥宗光高浜虚子星野立子大佛次郎などの墓があり、さらにその奥のやぐら(鎌倉地方特有の横穴式墓所)には、北条政子と源実朝の墓と伝わる五輪塔がある。

なお、総門から中門までの参道と裏山の墓地は公開されているが、中門から内側の境内は一般公開されていない。

山門から中門への参道

中門

墓所

高浜虚子

陸奥広吉(
陸奥宗光の長男)

田邊新之助

大仏次郎

高島直一郎(高島小金治の長男)

山田忠澄


源実朝墓

大佛次郎墓

高浜虚子墓

文化財
国指定
重要文化財

木造地蔵菩薩立像 - 指定年月日:1925年(大正14年)4月24日。
鎌倉国宝館に寄託[5]
鎌倉時代作で、像高167.5センチメートル。一木造。蓮華座までが一木から作られ、内刳りもなく、この時代には珍しい構造の像である[6]

銅造薬師如来坐像(鶴岡八幡宮伝来) - 指定年月日:1993年(平成5年)6月10日[7]。鎌倉国宝館に寄託[5]
鎌倉時代作で、像高53.5センチメートル。鶴岡八幡宮の回廊東南隅にあった座不冷壇所(ざさまさずのだんしょ)に伝来したもので、神仏分離のおりに寿福寺に移された。左手に薬壺をもつ通常の薬師如来像であるが、特色としては、左手は腹前に近い位置で仰掌し、内衣をまとい、左袖の縁を装飾的に折り畳み、右袖は波状のうねりが付けられている。両足部を含む頭躰全形を一度に鋳造し、像内は中空で、銅厚は0.5 - 0.9センチメートルと薄く均一に鋳造されている。両手首から先は別に鋳造されている。現在、表面は後世の補修による漆箔に覆われているが製作当初はメッキ仕上げであったと考えられている。顔面部をうつむけた厳しさのある表情や頬が丸く張った輪郭、上躰をゆったりと構えた体勢や著衣(あらわしごろも)は、運慶一門により建暦2年(1212年)頃に造像された興福寺北円堂弥勒仏坐像(国宝)に通じるところがあり、原型は運慶派仏師によると考えられる。  『吾妻鏡』建暦元年(1211年)11月16日条によれば北条政子発願の金銅三尺薬師三尊が同日供養され、鶴岡神宮寺に安置されたことが知られる。本像は近世にはこの政子発願像の中尊にとされ、作風から本像の製作の時期もその頃と考えられるため、本像が政子発願像にあたる可能性が高いと考えられている[7]

喫茶養生記 上・下 - 指定年月日:1974年(昭和49年)6月8日。袋綴装冊子本[8]
明庵栄西の著。鎌倉時代作。主として上巻は茶について、 下巻は桑について書かれている[9]。名称、効用、使用 法、製法などについて述べたものであり、喫茶の効能や製法等を伝えた医書で茶書としても重んじられた。巻末に承元五年正月の栄西の本奥書がある。


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