対馬_(海防艦)
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対馬
基本情報
建造所
日本鋼管鶴見造船所
運用者 大日本帝国海軍
第二復員省/復員庁
中華民国海軍
艦種海防艦(日本海軍)
特別輸送艦(第二復員省/復員庁)
巡邏艦/布雷艇(中華民國海軍)
級名占守型海防艦
建造費5,112,000円(予算成立時の価格)
艦歴
計画マル急計画
起工1942年6月20日
進水1943年3月20日
竣工1943年7月28日
除籍1945年10月5日(日本海軍)
1947年7月31日(復員庁)
1963年(中華民軍海軍)
要目(竣工時)
基準排水量870トン
全長77.70m
最大幅9.10m
吃水3.05m
主機艦本式22号10型ディーゼルx2基
推進2軸
出力4,200hp
速力19.7ノット
燃料重油200トン
航続距離16ノットで8,000海里
乗員定員146名[注釈 1]
兵装三年式45口径12センチ単装平射砲x3基
25mm連装機銃x2基
九四式爆雷投射機x1基
爆雷x36個
搭載艇短艇x4隻
ソナー九三式水中聴音機x1基
九三式水中探信儀x1基
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対馬(つしま)は、日本海軍海防艦[1]。普遍的には択捉型海防艦の7番艦とされているが[2]海軍省が定めた公式類別では占守型海防艦の11番艦。ヒ81船団等に参加した。太平洋戦争を生き延びて戦後は復員輸送に従事し、賠償艦として中華民国に引き渡された[1]。以降は敷設艦に改造されるなどして1963年まで現役だった。この名を持つ帝国海軍の艦船としては、新高型防護巡洋艦対馬に続いて二代目。艦名の由来は長崎県対馬から。
艦歴
竣工まで

マル急計画の海防艦甲型、第310号艦型の7番艦、仮称艦名第316号艦として計画。1942年昭和17年)6月20日日本鋼管鶴見造船所で起工。11月1日、「対馬」と命名。本籍を呉鎮守府と仮定され、占守型海防艦の11番艦に定められる。1943年(昭和18年)3月20日、進水。6月19日、艤装員事務所を設置。6月28日、艤装員長に鈴木盛中佐が着任。7月28日、対馬は竣工した[1]。鈴木中佐(対馬艤装員長)は対馬海防艦長となる[3]。同日附で、対馬艤装員事務所は撤去された。本籍を呉鎮守府に定められ[4]、呉鎮守府警備海防艦として呉海上防備戦隊に編入された。
昭和18年の行動

竣工後、対馬はに回航されて訓練を行い[1]門司に移動した。1943年(昭和18年)8月15日、第1海上護衛隊に編入された[1][4]。以後、内地?フィリピン?シンガポール方面の護衛に従事する[4]。8月17日、輸送船2隻からなるマ01船団を護衛して門司を出港する。20日、船団は基隆に到着した。21日、対馬は高雄に移動する。22日に輸送船2隻からなるマ02船団を護衛して高雄を出港した。26日、船団は門司に到着した。

9月1日1600、輸送船2隻からなるマ03船団を護衛して門司を出港。4日0800、船団は基隆に到着。5日0530、対馬は基隆を出港し、2030に高雄に到着。8日0900、輸送船談を護衛して高雄を出港。13日1500、船団は門司に到着。1800、対馬は門司を出港し、14日0700に呉に到着して修理を受ける。修理完了後の23日0900、対馬は呉を出港し、1800に門司に到着。25日1700、海軍徴用船睦洋丸(東洋汽船、2,726トン)他輸送船3隻からなるマ05船団を護衛して門司を出港。29日0800、船団は高雄に到着。

10月5日0700、陸軍配当船みりい丸(三菱汽船、10,565トン)他輸送船3隻を海防艦松輪と共に護衛して高雄を出港した[5][6]。6日0900、貨客船富士丸(日本郵船、9,138トン)、同鴨緑丸大阪商船、7,362トン)からなるマ06船団を発見し、護衛を開始する。9日0800、船団は門司に到着した。12日1600、特設運送艦讃岐丸(日本郵船、9,246トン)他輸送船7隻からなるヒ13船団を駆逐艦朝風と共に護衛して門司を出港した。16日1846、船団は高雄に到着する。18日1557に高雄を出港し、21日1709に海南島三亜に到着した。23日2150に三亜を出港し、船団は30日1546に昭南に到着した。

11月3日1210、対馬は特設運送船北陸丸(大阪商船、8,365トン)他輸送船5隻からなるヒ14船団を護衛して昭南を出港した。護衛艦艇は、対馬1隻であった[7]。6日夜、船団は.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯10度40分 東経115度15分 / 北緯10.667度 東経115.250度 / 10.667; 115.250の地点で遠方にいた米潜ブルーフィッシュ(USS Bluefish, SS-222)に発見される[8]。ブルーフィッシュはいったん船団を見失うも、翌7日午後に再度発見して船団の全貌をおおよそつかむ事ができた[9]。8日朝、ブルーフィッシュは北緯16度44分 東経116度22分 / 北緯16.733度 東経116.367度 / 16.733; 116.367の南沙諸島東方に至ったところで浮上攻撃を仕掛け、先頭船、五番船および六番船に対して、艦首と艦尾の両発射管を使って魚雷を計10本発射し、全て命中させたと判断される[10]。1時間後に二度目の攻撃で後落したタンカーに対して魚雷を4本発射したが、1本は命中したものの不発で2本は命中せず、残る1本が命中しただけだった[11]。三度目の攻撃で魚雷を2本発射して1本を命中させ、四度目の攻撃でも魚雷を2本発射し2本とも命中させた[11]。一連の攻撃で1TL型戦時標準タンカー旭栄丸(日東汽船、10,571トン)が沈没した。対馬は生存者救助のため船団から分離し、61名を救助した[3]。救助作業に従事している間、船団は丸裸であった[7]。救助作業終了後、対馬は先に退避していた船団をおいかけた[7]。10日1100、船団は高雄に到着した。11日1330、対馬は高雄に到着した。18日0837、対馬は輸送船2隻からなる臨時輸送船団を護衛して高雄を出港。1706、対馬は船団から分離して高雄に戻った。19日1040、対馬は輸送船2隻からなる臨時輸送船団を護衛して高雄を出港。23日0830、船団はダバオに到着した。25日1600、単独でダバオを出港し、27日1100に対潜掃討を行った。28日1155、対馬はマニラに到着。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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