対馬藩
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対馬府中藩(つしまふちゅうはん)は、江戸時代対馬国長崎県対馬市)全土と肥前国田代(佐賀県鳥栖市東部ならびに基山町)および浜崎(佐賀県唐津市浜玉町浜崎)を治めていたである。別名厳原藩(いづはらはん)。一般には単に対馬藩(つしまはん)と呼称されることが多い。「府中」は当時厳原城下町をこう称していたことに由来する。藩庁は当初金石城対馬市厳原町西里)、のち桟原城(対馬市厳原町桟原)。藩主は宗氏で初代藩主義智以来、位階従四位下を与えられ、官職は主に対馬守侍従を称した。

対馬府中藩の在郷支配は近世諸藩のなかでも特殊な性格を有しており、兵農分離はあまり明確でなく、多くの地方給人があり、給人の下に名子被官がいて、多くの点で中世的性格を保った。
概要宗氏の城下町のあった対馬府中(現在の厳原)初代藩主宗義智
対馬府中藩の成立

1587年天正15年)、豊臣秀吉九州平定に際して宗氏は事前に豊臣政権への臣従を決め、本領安堵された。1590年(天正18年)には、宗義智が従四位下侍従・対馬守に任ぜられ、以後宗氏の当主に与えられる官位の慣例となった。

秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)では、出兵に先立つ1591年(天正19年)、厳原には古代の金石城の背後に清水山城が、上対馬の大浦には撃方山城が築かれて中継基地となった。対馬からは宗義智が5,000人を動員した。義智率いる対馬勢は一番隊から九番隊に編成された派遣軍のなかでも最先鋒部隊にあたる小西行長の一番隊に配属された。義智は、戦闘だけでなく行長とともに日本側の外交も担っており、常に2人で講和を画策していたという。30万の軍隊がここを中継地として渡海したため、対馬ではたちまち食糧が底をつき、駐留する兵士がなどを住民から奪う禁令が出されたという[1]。義智は、1600年慶長5年)の関ヶ原の戦いでは西軍に加わって、みずからは伏見城攻撃に参加し、大津城攻めや関ヶ原本戦では家臣を派遣して参陣した。西軍敗北後は徳川家康から許され、以後代々徳川氏に臣属し、李氏朝鮮に対する外交窓口としての役割を担うこととなった。

1609年(慶長14年)には己酉約条(慶長条約)が締結され、釜山には倭館が再建された。倭館は、長崎出島の25倍におよぶ約10万坪の土地に設けられ、500人から1,000人におよぶ対馬藩士・対馬島民が居留して貿易が行われた。

第2代藩主宗義成の代には、1615年元和元年)に大坂の陣に徳川方として参加した。その後、義成と対馬藩家老柳川調興とのあいだに柳川一件が起こっているが、1635年寛永12年)、第3代将軍・徳川家光によって裁可され、調興敗訴となった。1637年(寛永14年)から翌年にかけては島原の乱幕府側として参加した。佐須鉱山を再掘したのも義成の時代であった。

対馬府中藩は、参勤交代制度に基づき、3年に1度、江戸征夷大将軍に出仕することとされ、江戸に藩邸を構え、厳原との間を藩主自らが大勢の家臣を率い、盛大な大名行列を仕立てて往来した。
対馬の繁栄と日朝外交

対馬全島の検地1661年(寛文元年)から1664年(寛文4年)にかけて実施されたが、その際には4尺8寸の検地竿が用いられた。そして、田・畑・木庭(こば、後述)も厳重に調べ、一切の土地をいったん収公したうえ、あらためて農民に均分し、1年ごとに用益者の交替を行うという均田割替の制が実施された[2]

外交面では、鎖国体制のなか、朝鮮通信使を迎えるなど日朝外交の仲介者としての役割を果たした。また、日朝それぞれの中央権力から釜山の倭館において出貿易を許されていた。現在の釜山市は対馬の人びとによってつくられた草梁の町から発展したものである。柳川一件以来、日朝外交の体制が整備され、府中の以酊庵京都五山禅僧が輪番で赴任して外交文書を管掌する「以酊庵輪番制」が確立するなど幕府の統制も強化された。1663年(寛文3年)には、対馬藩により5基の船着き場が造成されており、「お船江跡」という遺構として当時のつくりのまま保存されている。対馬府中藩によって1663年につくられた船着き場「お船江跡」

対馬府中藩は、当初は肥前国内1万石を併せて2万石格であったが幕府は朝鮮との重要な外交窓口として重視し、初代藩主・宗義智以来、対馬府中藩を国主10万石格として遇した。しかし、山がちで平野の少ない対馬本国では稲作がふるわず、米4,500石、麦15,000石程度の収穫であり、肥前国飛領を除くと実質的には無高に近く、藩収入は朝鮮との交易によるものであった。対馬では、作付面積のうち最も多いのは畑で、それに次ぐのは「木庭」とよばれる焼畑であり、検地では「木庭」も百姓持高に加えられた。また、石高制に代わって「間高制」という特別の生産単位が採用された[3]

対馬の行政区域は、城下の府中(厳原)のほか、豊崎、佐護、伊奈、三根、仁位、与良、佐須、豆酘の8郷に分け、郷ごとに奉役があり、その下に村が置かれ、村ごとに下知役が土着の給人家臣から任じられ、また、各村には在郷足軽より選ばれた肝煎、血判などの村役人が置かれた。農業生産の乏しい対馬では、後述するイノシシ狩りのほか甘薯栽培、新田開発などさまざまな農業政策が積極的に実施された[3]

17世紀後半には、日朝貿易と銀山の隆盛から対馬藩はおおいに栄え、雨森芳洲陶山鈍翁(訥庵)、松浦霞沼などの人材も輩出した。往時の宗氏の繁栄の様子は、菩提寺万松院のみならず、海神神社や和多津美神社の壮麗さが今日に伝えている[4]。1685年(貞享2年)には、第3代藩主宗義真が府中に「小学校」と名づけた学校を建て、家臣の子弟の教育をおこなった。これが、日本で「小学校」の名称のつく施設の最初であるという[5]木下順庵門下の雨森芳洲を対馬に招いたのも宗義真であった。

18世紀初めには、第5代藩主・宗義方の郡奉行であった陶山鈍翁の尽力で10年近い歳月をかけて「猪鹿追詰(いじかおいつめ)」がおこなわれた。それにより、1709年(宝永6年)、当時は焼畑耕作の害獣であったイノシシは絶滅している[6]。これは、5代将軍徳川綱吉によって生類憐れみの令が出されているさなかのことであり、鈍翁は死罪になることを覚悟して断行したもので、人びとからは「対馬聖人」と崇められた。

なお、1778年(安永7年)に家督相続を許された第11代藩主・宗義功1785年(天明5年)に第12代藩主となった宗義功は同名であるが、これは第11代の義功が将軍御目見前に急逝し、弟を身代わりとして藩を承継させたためである。
宗氏転封計画とポサドニック号事件1838年に完成した『天保国絵図』「対馬国」

江戸時代も末葉になると、木綿朝鮮人参の国産化が実現したこともあり、肝心の朝鮮との貿易がふるわなくなった。島民の生活は困窮をきわめた。また、極度の財政難から、対馬藩は幕府に訴えて朝鮮通信使接待の費用や貿易不振の援護金の下付や貸付を受けた。さらに、周辺海域に欧米の船が出没するようになり、1858年(安政5年)、この地の守りを重要視した幕府は、朝鮮貿易を幕府直轄とし、宗氏を河内国に10万石(20万石説もあり)で転封する計画を立て、家臣のなかにも移封を唱えるものがあった[3]。しかし、宗氏は中世以来の対馬の領主という誇りがあり、家臣の多くもこの地に根ざした生活を保っていたため、宗氏転封計画は実行には至らなかった。

1861年万延2年)、ロシアの軍艦ポサドニック号が浅茅湾に投錨し、対抗したイギリス軍艦も測量を名目に同じく吹崎沖に停泊して一時占拠する事件が起こった。


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