対馬国
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対馬国

■-対馬国
■-西海道
別称対州(たいしゅう)
所属西海道
相当領域長崎県対馬市対馬島
諸元
国力下国
距離遠国
数2郡9郷
国内主要施設
対馬国府長崎県対馬市
対馬国分寺(推定)長崎県対馬市
対馬国分尼寺(未詳)
一宮海神神社(長崎県対馬市)
厳原八幡宮(長崎県対馬市)
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対馬国(つしまのくに、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:對馬國)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。
概要

対馬国の初見は、『三国志魏志倭人伝の対馬国である(三国志のテキストの間でも版によって表記が異なり、現存する最古の版である紹煕〈しょうき〉本では対海国、よりポピュラーな版である紹興〈しょうこう〉本では対馬国となっている)。倭人伝の「今、使訳を通ずるところ三十国」のうちの一国。日本では津島とも書かれたが、7世紀律令制の地域区分として対馬国が設けられると、「対馬」の表記に定まった。

古事記』の建国神話には、最初に生まれた島々(「大八洲」)の1つとして「津島」と記されている。『日本書紀』の国産み神話のなかには「対馬洲」「対馬島」の表記で登場する。古くからユーラシア大陸との交流があり、歴史的には朝鮮半島倭国倭人ヤマトをむすぶ交通の要衝であった。

対馬国は律令制下で対馬島とも呼ばれ、その国司は島司とも呼ばれた。701年大宝元年)の大宝律令では「対馬島」と改称され、のちに再び「対馬国」に復している。

国内には上県郡下県郡の2郡が置かれた。上県(かみあがた)郡は伊奈(いな)、久須(くす)、向日(むかい)、三根(みね)、佐護(さご)の5郷、下県(しもあがた)郡は豆酘(つつ)、鶏知(けち)、賀志(かし)、与良(よら)、玉調(たまつき)の5郷から成った。大化以前は上県、下県の両国造の領域であった。

延喜式』によれば、大宰府からの海路行程は4日、正税3,920束、と中男作物は免除され、特産品としてはを納めることとなっていた。
歴史詳細は「対馬#歴史」を参照
先史時代

魏志倭人伝には「対馬国」が倭国の1国として登場し、邪馬台国に服属したことが記されている。「対馬国」の地誌については、同書は以下のように説明している。

始度一海千余里 至対馬国 其大官曰卑狗 副曰卑奴母離。所居絶島 方可四百余里。土地山険 多深林 道路如禽鹿径。有千余戸。無良田 食海物自活 乗船南北市糴。訳;はじめて一つ海を渡る。一千余ある。対馬国に至る。そこの大官(長官)は卑狗(ひこ、ひく)といい、副官は卑奴母離(ひなもり)という。住んでいるところは海に囲まれた島で、広さは四方四百余里ばかりである。その土地は山が険しく、深い森が多く、道路はけものや鹿の通り道のようである。また人家は千余戸がある。良い田がなく、海の物を食べて自活し、船に乗り南や北に海を渡って穀物を買い入れている。

弥生時代の対馬北部の集落遺跡塔の首遺跡(対馬市上対馬町)では、石棺の内外に朝鮮半島系および中国系のもの(方格規矩文鏡・銅釧・陶質土器など)と北九州系のもの(広鋒銅矛・玉など)が一緒に副葬されており、『魏志』における「南北市糴」の記載を裏づけている[1]

4世紀になると対馬にも本格的に古墳時代が到来する。4世紀後半以降、東海岸の鶏知浦周辺に畿内型の前期古墳で島内最大の出居塚古墳(対馬市美津島町)が出現し、つづいて前方後円墳をふくむ根曽古墳群(対馬市美津島町)がつくられ、5世紀から6世紀後半におよんでいる[2]。4世紀後半代には北部に大将軍山古墳(対馬市上県町)がつくられたものの、全体からみれば、古墳分布は、旧来の浅茅湾周辺の社会集団と関係を結びながら、ヤマト王権との連絡に好適な東海岸鶏知浦付近に王権と直接つながるような首長層が成立してきたことを物語る[2]
古代

白村江の戦いののち対馬には防人が置かれ、山城も築かれて外寇の防備としたが、8世紀から9世紀にかけての新羅の入寇、11世紀の刀伊の入寇などしばしば戦火をこうむった。
飛鳥時代金田城

島の首長について、『先代旧事本紀』の「国造本紀」では「津島県直」と伝える。古墳時代にはヤマト王権がたびたび朝鮮半島に出兵しており、こうした状況は『日本書紀』、『広開土王碑文』、『宋書』倭国伝、『三国史記』の記載でも認められる。このなかで対馬の具体的な地名が登場するのは、『日本書紀』における神功皇后新羅征討伝承であり、それにかかわって「和珥津(わにのつ)」の地名が登場し、対馬に屯倉を設置したと記述される。朝鮮側の記録としては、『三国史記』に新羅王実聖尼師今の治世7年(408年)に、倭人が新羅を襲撃するため対馬島内に軍営を設置していたことが記されている。

645年大化の改新ののち律令制が施行されると、対馬は西海道に属する令制国すなわち対馬国として現在の厳原(いづはら)に国府が置かれ、大宰府の管轄下に入った。推古天皇における600年(推古8年)と607年(推古15年)の遣隋使も、また630年舒明2年)の犬上御田鍬よりはじまる初期の遣唐使もすべて航海は壱岐と対馬を航路の寄港地としていた。

663年天智2年)の白村江の戦い以後、倭国は、新羅の侵攻に備え、664年には対馬には防人(さきもり)が置かれ、烽(とぶひ)が8ヶ所に設置された。防人はおもに東国から徴発され、『万葉集』には数多くの防人歌がのこっている。667年(天智6年)には浅茅湾南岸に山城金田城を築いて国境要塞とし、674年天武3年、白鳳2年)には厳原が正式な国府の地に定まって、同年、対馬国司忍海造大国(おしみのみやつこのおおくに)が対馬で産出した朝廷に献上した。これが日本で初めての銀の産出となった。(対馬銀山

701年文武5年)、対馬で産出したと称するを朝廷に献上したところ、これを慶んだ朝廷によって「大宝」の元号が建てられた。ただし、これは現在では偽鋳であるといわれている。なお、同年制定の大宝律令において対馬国は「対馬島」と表記されている[3]
奈良時代

防人の制は、3年交代で東国から派遣された兵士2,000余人によって成り立っていたが、737年(天平9年)にはこれを止め、九州本土の筑紫国人を壱岐・対馬に派遣することに改めたが再び東国防人の制が復活し、757年天平宝字元年)にはそれも廃して西海道のうち7国(筑前国筑後国肥前国肥後国豊前国豊後国日向国)の兵1,000人をもってこれに代えることとした[4]


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