対華21ヶ条要求
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対華21カ条要求(たいか21かじょうようきゅう)は、第一次世界大戦中の1915年1月18日日本中国に対して行った満蒙における日本の権益問題や在華日本人の条約上の法益保護問題をめぐる21か条の要求と希望のこと[1]。対支21ヶ条要求、二十一か条の要求とも呼ばれる(中国語版では「二十一条」)。.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに 対華21ヶ条要求の原文があります。

一部は山東条項としてヴェルサイユ条約に反映されたが、最終的には1922年の山東懸案解決に関する条約等により、日本軍の撤退と租借地及び公有財産・青島税関の返還が行われ、外国人の青島市政参与権は拒否され、山東省の主要都市も外国人には解放されずに終了した。
概要

当初、中国側の袁世凱は希望条項として秘密交渉に委ねられていた第5号の7か条(日本人の政治・財政・警察顧問の招聘、日本の兵器受給などの要求)を国際社会に暴露することで国際社会の反発を煽って不成立にしようと画策したが、 日本側は4月26日に要求を19ヶ条に減らして若干緩和し、さらに5月7日には第5号の要求を削除した13ヶ条にし、5月9日を期限とする「最後通告文」を出した結果、同日に袁世凱が最後通告文を承認[1][2][3]。しかし中国国内では受諾に対する激しい反対運動や暴動がおこり[2]、日中関係が悪化。また外国の猜疑心を招き、ワシントン会議では10か条に縮小された[3]
経緯

第一次世界大戦ヨーロッパで始まり、日本は第三回日英同盟協約により、1914年8月23日にドイツ帝国宣戦布告し、連合国の一員として参戦した。参戦に際し日本政府はドイツ政府宛に「独国政府ニ与ヘタル帝国政府ノ勧告」を8月15日に発し、その中で膠州湾租借地(青島)の全部を支那国(中華民国)に還付する目的をもって無償無条件に日本帝国官憲に公布することを要求した[4]。しかしその真意は決して文面どおりのものではなかった[5]。日本政府は租借地の解消とともに外国人(日本人)居留地を設営したのち従来のドイツ商権および鉄道運行権を日本人居留民が継承することを想定しており、青島攻略戦ののちこの認識の違いがただちに外交問題となった。

第一次世界大戦において中華民国は当初は中立であり[注釈 1]日本の対独宣戦布告に対し、山東半島において交戦区域を設定した。この交戦区域は中華民国が日独英に一方的に通告したものであったが、ドイツは膠済鉄道を物資補給に利用し、日本はこれを占領するなど交戦区域外での軍事行動が行われ、また中華民国も交戦区域からの逸脱を有効に排除しえなかった[注釈 2]。日本軍は1914年10月末に実施した青島の戦いの際、「交戦区域」外に進出、膠済鉄道がドイツ軍の物資輸送に利用されているとしてこれを占領し[注釈 3]、10月7日には終着駅である済南府停車場まで進出している[8]。済南は山東省の首都であり、維県(維坊)はドイツ膠済鉄道(山東鉄道)上の重要都市である。青島攻略後も膠済鉄道の附属地域の占領は継続された。

一方で中華民国政府は交戦区域からの逸脱に抗議し、1915年1月に交戦区域の撤廃を日独英に通告し、ドイツ租借地および膠済線附属地外の日本軍の撤収を要求した。また日本の膠済鉄道(山東鉄道)や青島税関の管理権を拒否した。中華民国はドイツ権益が中華民国政府の管理下におかれるべきと要求したのだが、日本政府は戦時国際法上の軍事占領として日本軍が管理するべきものとした。日本政府としてはドイツと開戦したのであり、休戦後の講和条件によって山東半島の対ドイツ租借権をドイツから継承したのち中華民国に返還する意向であると表明したが(ただし、租借地の返還期限は明示することはなく、パリ講和会議において日中間の直接交渉に持ち込む意図であった)、一方で中華民国の主張は対独租借条約の文言に「他国に譲渡せず」の文言があり中華民国に直接返還されなければならないとした[9]

欧州では第一次世界大戦が継続中であり、日本政府としてはドイツとの休戦・講和が成立するまで山東膠州湾のドイツ権益を占領する必要があり、膠済鉄道や青島税関は日本が戦時接収していた。軍事占領は権益の帰属を確定させるものではなく、日本政府が一方的に中華民国に返還した場合、戦争の推移や講和条件の如何によっては日本政府がドイツあるいは中華民国に対して山東の一方的返還について多額の賠償義務を負う可能性がある。また辛亥革命の成立以降、中華民国中央政府と日本政府との正式な外交条約はいまだ締約されておらず、過去の日清間の諸条約の継承関係は明確でなく、とりわけ旅順・大連の租借権が1923年に期限を迎えること[注釈 4]は外交上の懸案であった。

日本政府は袁世凱大総統と直接交渉することで事態の打開に動いた。1914年12月3日、加藤高明外相は、駐華公使日置益に対華要求を訓令し、翌1915年大正4年)1月18日大隈重信内閣(加藤高明外務大臣)は袁世凱に5号21か条の要求を行った。主に次のような内容であった[10]

第1号 山東省について

ドイツ山東省に持っていた権益を日本が継承すること

山東省内やその沿岸島嶼を他国に譲与・貸与しないこと

芝罘または竜口膠州湾から済南に至る鉄道(膠済鉄道)を連絡する鉄道の敷設権を日本に許すこと

山東省の港湾都市を外国人の居住・貿易のために新しく開放すること


第2号 南満洲及び東部内蒙古について

旅順大連関東州)の租借期限、満鉄安奉鉄道の権益期限を99年に延長すること(旅順・大連は1997年まで、満鉄・安奉鉄道は2002年まで)

日本人に対し、各種商工業上の建物の建設、耕作に必要な土地の貸借・所有権を与えること

日本人が南満洲・東部内蒙古において自由に居住・往来したり、各種商工業などの業務に従事することを許すこと

日本人に対し、指定する鉱山の採掘権を与えること

他国人に鉄道敷設権を与えるとき、鉄道敷設のために他国から資金援助を受けるとき、また諸税を担保として借款を受けるときは日本政府の同意を得ること

政治・財政・軍事に関する顧問教官を必要とする場合は日本政府に協議すること

吉長鉄道の管理・経営を99年間日本に委任すること


第3号 漢冶萍公司(かんやひょうこんす:中華民国最大の製鉄会社)について

漢冶萍公司を日中合弁化すること。また、中国政府は日本政府の同意なく同公司の権利・財産などを処分しないようにすること。

漢冶萍公司に属する諸鉱山付近の鉱山について、同公司の承諾なくして他者に採掘を許可しないこと。また、同公司に直接的・間接的に影響が及ぶおそれのある措置を執る場合は、まず同公司の同意を得ること


第4号 中国の領土保全について

沿岸の港湾・島嶼を外国に譲与・貸与しないこと(※注、不割譲条約及び勢力圏を参照)


第5号 中国政府の顧問として日本人を雇用すること、その他

中国政府に政治顧問、経済顧問、軍事顧問として有力な日本人を雇用すること

中国内地の日本の病院・寺院・学校に対して、その土地所有権を認めること

これまでは日中間で警察事故が発生することが多く、不快な論争を醸したことも少なくなかったため、必要性のある地方の警察を日中合同とするか、またはその地方の中国警察に多数の日本人を雇用することとし、中国警察機関の刷新確立を図ること[11]

一定の数量(中国政府所有の半数)以上の兵器の供給を日本より行い、あるいは中国国内に日中合弁の兵器廠を設立し、日本より技師・材料の供給を仰ぐこと

武昌九江を連絡する鉄道、および南昌杭州間、南昌・潮州間の鉄道敷設権を日本に与えること

福建省における鉄道・鉱山・港湾の設備(造船所を含む)に関して、建設に外国資本を必要とする場合はまず日本に協議すること

中国において日本人の布教権を認めること

このうち、日本側が重視したのは第二号、なかんずく旅順大連の租借地期限の延長と満鉄及び安奉線の期限の延長であった[注釈 5]

日本が中国に特殊利益を有することは、イギリス、フランス、ロシアは、明文あるいは黙示を以って承認していたが、ドイツは不承認でありアメリカの態度は明確でなかった。3月8日、イギリスのグレイ外相は加藤外相に対し、「自分が非常に懸念しているのは、日中問題から生起すべき政治上の事態進展にある。


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