対立王(たいりつおう、独: Gegenkonig、英: antiking)は、継承争いや政治上の対立のため、君臨している君主に対して自分こそが正当な君主であると宣言する王。 対立王の例は世襲君主制の国よりも選挙王制の国でよく見られ、15世紀初頭までの神聖ローマ帝国で最もよく見られる。「対立王」に類似した用語に「対立教皇」があり、実際にこれらには深い関係がある。ローマ王・ローマ皇帝が政治的に闘争中であったローマ教皇を弱体化するためにたびたび対立教皇を擁立し、ローマ教皇も自分と意見を異にする皇帝の政敵としてたびたび対立王を支援したのであった[1]。 王位請求の自分の権利が正当であることを示すことに成功し、正当な国王として承認された対立王もいれば、対立王としての地位について今日もなお議論されている対立王もいる。前者にはコンラート3世、フリードリヒ2世、カール4世などのローマ皇帝がおり、後者にはバイエルン公ハインリヒ2世、マイセン辺境伯エクベルト2世などがいる。他に対立王を出した国にボヘミア、ハンガリー、イングランドやフランス、アラゴンなどがある。 対立王が立てられる場合には、国内の王位継承問題が絡むことも多い。そのため、他国を巻き込んだ内戦や継承戦争に発展する場合もある。13世紀には、ローマ皇帝のいない大空位時代に発展した。 対立王年代当時の君主
概要
ドイツの著名な対立王
バイエルン公アルヌルフ919年 - 921年東フランク王ハインリヒ1世
シュヴァーベン大公ルドルフ1077年 - 1080年ローマ皇帝ハインリヒ4世
ザルム伯ヘルマン1081年 - 1088年ローマ皇帝ハインリヒ4世
ローマ王コンラート3世1127年 - 1135年ローマ皇帝ロタール3世
ローマ皇帝フリードリヒ2世1212年 - 1215年ローマ皇帝オットー4世
テューリンゲン方伯ハインリヒ・ラスペ1246年 - 1247年ローマ皇帝フリードリヒ2世
ホラント伯ウィレム2世1248年 - 1250年ローマ皇帝フリードリヒ2世
ホラント伯ウィレム2世1250年 - 1254年ローマ王コンラート4世
カスティーリャ王アルフォンソ10世1257年 - 1273年ローマ王リヒャルト
ローマ王フリードリヒ3世1314年 - 1325年ローマ王ルートヴィヒ4世
ローマ皇帝カール4世1346年 - 1347年ローマ皇帝ルートヴィヒ4世
ギュンター・フォン・シュヴァルツブルク1349年ローマ皇帝カール4世
ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公フリードリヒ1世1400年ローマ王ヴェンツェル
脚注^ 菊池、P80。
参照文献
菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社(講談社現代新書)、2003年。
関連項目
対立教皇
ローマ王(ドイツ王)
王位請求者
百年戦争
ジャコバイト
ナポリ・アンジュー朝
継承戦争