対潜戦
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1941年大西洋海戦における対潜水艦哨戒

対潜戦(たいせんせん、英語: Anti-submarine warfare, ASW, A/S)は、潜水艦に対する海戦のこと。潜水艦対対潜ユニットでの局地的対潜戦闘は、ASWと称され、敵対勢力との競合海域全般におよぶ、より広範囲の対潜水艦戦をシアターASW:戦域対潜戦と呼称する。

対潜戦では、他の形態の海戦と同様にセンサ兵器などの技術的進歩、訓練および経験、平時からの敵潜水艦の音紋磁気特性などの継続的な収集(水中音響戦)と潮流などの自然環境の観測、海戦術航空戦術の改善により戦闘時の優位をもたらす。とりわけ、最初に敵潜水艦を発見するソナーの役割は大きく、対潜戦の成否の鍵を握っている。潜水艦の破壊には航空機や水上艦、水中のプラットホームから発射される対潜兵器が使用される。

対潜戦の実行は同時に水中の脅威から艦隊商船を護衛することになる。第一次世界大戦以降、潜水艦を含む脅威から商船を守るため護送船団が編成された。
黎明期日本のホランド級潜水艦、第一潜水艇

軍事用潜水艦の建造の試みは古くから様々に存在していたものの、実際に水中の乗り物による船舶へ最初の攻撃が行われたのは、アメリカ独立戦争中の1776年のタートル潜水艇による作戦であると一般に信じられている。この際、攻撃に用いられたのは、今でいう機雷だが、当時はトーピード(現在は一般に魚雷を指す)と呼ばれていた。最初の自航式魚雷は1863年に発明され、水上小型船舶から発射された。魚雷を装備した最初の潜水艦はNordenfeld IIであり、提案されたのはより早期であったものの、建造されたのは1886年であった。この間の1864年には、アメリカ連合国海軍の「H・L・ハンリー」により、初の撃沈スコアが記録されている。

1904 - 1905年の日露戦争においては、大日本帝国海軍ロシア帝国海軍がともにホランド級潜水艦を導入していたことから、双方ともに相手の潜水艦を警戒して神経をすり減らすことになった。結局、いずれの潜水艦も実戦投入には至らなかったものの、これにより、戦史上初の対潜戦が展開された[1]

計画案として、潜望鏡対策にペンキや油をまいたり、鳥や海の生き物を訓練したり、手漕ぎボートを展開して潜望鏡をハンマーでたたくことが提案された。広く使われていたのが、煙幕や爆薬が付いた鉤爪を曳航する方法であった[2]
爆雷と護送船団(第一次世界大戦)Uボートの雷撃により撃沈される商船

潜水艦が本格的に実戦投入されたのは第一次世界大戦からであり、1914年の大戦の勃発までに300隻近い潜水艦が任務に就いていた。これに対抗するため、この時期に建造された艦艇は、魚雷に対する防御として、装甲帯をつけていた。

大戦勃発から1か月後の9月5日、Uボートの1隻であるU21の雷撃によりイギリス海軍偵察巡洋艦パスファインダー」が撃沈されたのを端緒として、その17日後の9月22日にはU9が3隻のクレッシー級装甲巡洋艦を立て続けに撃沈するなど、潜水艦の脅威は猖獗を極めた[3]

また1915年からは通商破壊戦、1917年からはさらに拡大した無制限潜水艦作戦が開始された[3]島国であるイギリス帝国は資源・食料の多くを海外の植民地からの輸入に頼っていたことから、これに対しイギリス海軍も全力で対抗し、大西洋の戦いが幕を開けた。

この戦いを通じて、現代に通じる対潜戦の技術の多くが実用化されていくことになった。水上艦がUボートに対抗する手段としては、当初は浮上時に体当たりか砲撃を加えるのが普通であり、潜航中の敵艦を攻撃できる手段としては原始的な曳航式爆破具が用いられていた程度であったが、1914年11月より投射式の爆雷の開発が開始され、1915年に実用化された。またハイドロフォン(のちのパッシブ・ソナー)の実用化も進められ、1915年には地上局が設置され[4]、1916年には艦載化が開始された[1]。アクティブ式のASDIC(のちのアクティブ・ソナー)の開発も進められたが、その実用化は1920年と、大戦には間に合わなかった[4]

さらに機雷戦も応用され、1918年には、英米共同で73,000個以上の機雷を敷設して北海機雷堰を構築し、13隻のUボートを撃沈、休戦まで潜水艦を封じ込めた[5]。また大戦末期には、地上基地からの対潜哨戒機も実用化された[4]

また作戦術戦術の研究も進められた。1917年より開始された手法の一つがQシップと呼ばれる武装商船であった。このQシップを、Uボートの行動が確認された海域へ向け単独航行させる。当時、Uボートに搭載されていた魚雷は貴重品であり、簡単に使える物ではなかったため、護衛無しの単独航行中の商船の場合は、浮上して砲撃で攻撃していた。Qシップはこれを利用し、無防備な商船を装って、安心したUボートが攻撃しようと浮上した所を、突然攻撃してこれを撃沈するものであったが、無制限潜水艦作戦の開始とともに有効性は低下した。之字運動ダズル迷彩なども自衛手段として普及した。最も効果が有った対潜戦術は、やはり1917年より着手された護送船団方式であった。船を集団行動させて護衛艦を付ければ、単独行動時よりも輸送効率は悪くなるが、一隻当たりの被発見率を低下させる事が出来る。この方式により、それまで一回の航行に付き10%程度だった商船の被撃沈率は1%程度にまで低下した。

最終的に連合軍は勝利をおさめたものの、約5,300隻、1,300万トンに及ぶ商船を失い、世界は「灰色の狼」と呼ばれたUボートの脅威を知ることとなった。
ソナーと対潜前投兵器の普及(第二次世界大戦)

先の大戦で手痛い被害にあったイギリスだったが、その後は国内の軍縮ムードや財政難の影響で、対潜兵力の整備の進展は遅々たるものとなった。しかし技術開発は進められており、大戦中に開発を進めていたASDIC(アクティブ・ソナー)については、上記のとおり1920年に実用化され、装甲巡洋艦「アントリム」に搭載されて実験が行われた。1926年には潜水艦、1928年には駆逐艦への装備が開始されている[1]。また大戦直前の1939年計画より、対潜プラットフォームとしてハント級駆逐艦の建造も開始された[3]

しかし1939年に第二次世界大戦が勃発すると、イギリス海軍自慢のASDIC装備の護衛艦による護送船団戦術は、ドイツUボートの群狼作戦により危機にさらされることとなった[4]。これは、Uボートを3 - 20隻程度の集団で作戦海域に展開させておく。その内の一隻が敵船団を発見すると、すぐには攻撃を掛けず僚艦に位置情報を連絡し、船団の追尾を続ける。そして夜間になると全艦で一斉波状攻撃をかける戦術で、大きな効果を上げた。潜水艦隊は全て本国司令部のカール・デーニッツの指揮で動いていた。米海軍も日本への通商破壊戦で採用した。

一方、連合軍はこれに対抗すべく、数々の新兵器を投入した。
曳航ノイズメーカー
Uボートの誘導魚雷の命中率を低下させる事に成功。
対潜哨戒機
PBY カタリナPB4Y-2 プライバティアショート サンダーランドといった長距離哨戒機や飛行船などでの哨戒。水上艦での哨戒に比べ、航空機での哨戒は安全で効果が高かった。
護衛空母
船団に護衛空母を伴随させる事で、より船団に密着した航空対潜哨戒が可能。
暗号解読
ドイツ軍が使用していたエニグマの解読により、Uボートの作戦行動を察知。
レーダー
浮上航行時の探知確率が高まったことから、Uボートの浮上航行を大幅に制限する事に成功した。
電波方向探知機
短波方向探知機 (HF/DF) などが代表的。Uボートが通信で使う電波を逆探知して位置を割り出した。位置が分かると護衛艦がそこに急行してUボートを攻撃した。
対潜迫撃砲
ヘッジホッグスキッドなどが代表的。通常型爆雷と比べ、深度設定の必要が無く、また射撃直前にソナーから目標を失探することもない。
対潜魚雷
パッシブ・ホーミング式の誘導魚雷Mk.24などの投入により、敵潜水艦へのより効果的な攻撃が可能となった。

また、初めて数理学的分析も導入された。イギリス軍では、既にバトル・オブ・ブリテンにおいてパトリック・ブラケット博士を始めとする数学者たちがオペレーションズ・リサーチを活用していたが、ブラケット博士は海軍士官候補生として第一次世界大戦に従軍していたこともあり、対潜戦への応用にも積極的であった。


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