対仏大同盟
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第六次対仏大同盟の君主達、アレクサンドル1世フランツ2世ヴィルヘルム3世がライプツィヒの戦いでフランス軍が壊滅したとの知らせを聞いている。

対仏大同盟(たいふつだいどうめい)とは、フランス革命戦争およびナポレオン戦争において、グレートブリテン王国を中心とするヨーロッパ諸国が、フランス第一共和政およびフランス第一帝政の打倒を目的として結成した同盟である[1][2]1793年の第一次対仏大同盟から、1815年の第七次対仏大同盟まで、7回にわたって同盟が結成された。一貫してグレートブリテン王国が参加した他は、参加国には入れ替わりがある。相当量の軍資金がイングランド銀行から同盟諸国へ提供されていた。
一覧

第一次対仏大同盟1792年 - 1797年

第二次対仏大同盟1798年12月24日 - 1801年

第三次対仏大同盟1805年4月11日 - 1806年

第四次対仏大同盟1806年10月6日 - 1807年7月7日

第五次対仏大同盟1809年4月9日 - 1809年10月14日

第六次対仏大同盟1812年 - 1814年

第七次対仏大同盟1815年3月25日 - 1815年7月8日

概要
語源

対仏大同盟という言葉が初めて使われたのは、1803年の護民院の報告書である。この報告書の名前は”戦争、折衝、条約の結果とそれに続く対仏同盟”である。1793年4月は、デュムーリエ将軍がネールウィンデンの戦いで敗北し、フランスを絶望させた時であった。この時の状況は以下のように述べられている[3]

1805年1月にザルツベルグ諜報誌は以下のように対仏大同盟に数字を割り振った最初の記述がある。"バイエルンの国家の関心は第三次対仏大同盟にある[4]。"この時第三次対仏大同盟は結成されていたが、戦争はまだ始まっていなかった・オーストリアの新聞は隣国のバイエルン選帝侯領がオーストリア主導の同盟よりもフランス第一帝政の陣営に入りそうな事を議論していた。1805年9月30日にウルム戦役が開始されてから数日が経っていたが、皇帝ナポレオンはストラスブールの軍に以下のように演説している。兵士たちよ、第三次対仏大同盟との戦いが始まった[5]。"
他の用語との比較

この用語はフランス革命戦争とは区別される。フランス革命戦争は1792年から1799年の間のフランス革命期の全ての戦争を含んでおり、一般的にナポレオンが権力を獲得したブリュメール18日のクーデター(1799年11月9日)にフランス革命は終結したと考えられている。第二次対仏大同盟(1798年-1802年)時にはナポレオンは既に権力を掌握しており、第二次対仏大同盟は1801年(リュネヴィルの和約)1802年(アミアンの和約)に終結したため、第二次対仏大同盟の一部の期間はフランス革命戦争に含まれない。

またナポレオン戦争は様々な定義があり、ナポレオンがフランスを統治していた1799年から1815年の期間の全ての戦争を含んでいる場合(第二次対仏大同盟の戦いも含む)もあれば、第三次対仏大同盟までの間は含めない場合もある。後者の場合、歴史家は第二次対仏大同盟はナポレオン自身の戦いではないと見なしている。これは第二次対仏大同盟がフランス革命戦争を単に引き継いだものであるからである。

対仏大同盟は複数の参加国が共同で戦争を行った場合に用いられるため、フランス革命戦争とナポレオン戦争の全ての戦争を網羅しているわけではない。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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