寺田農
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政治家の「寺田稔」あるいは俳優の「寺田稔」とは別人です。

てらだ みのり
寺田 農
生年月日 (1942-11-07) 1942年11月7日
没年月日 (2024-03-14) 2024年3月14日(81歳没)
出身地 日本東京府東京市(現:東京都豊島区椎名町
身長173 cm[1]
血液型B型[1]
職業俳優
声優
ジャンル舞台
映画
テレビドラマ
活動期間1961年 - 2024年
配偶者高橋紀子1970年 - 2006年
一般女性(2011年 - )
著名な家族寺田政明(父)
寺田史(妹)[2]
中山仁(義弟〈妹の夫〉)
事務所オスカープロモーション(? - 2020年2月29日)→ ⇒CESエンタテインメント(2020年3月 - 2024年3月)[1]
主な作品
テレビドラマ
青春とはなんだ
独眼竜政宗
あいつがトラブル
琉球の風
大地の子
月下の棋士
サラリーマン金太郎
武蔵 MUSASHI
ドラゴン桜
仮面ライダーW
水戸黄門』映画
肉弾
座頭市と用心棒
ラブホテル
帝都物語
ミスミソウ
信虎』アテレコ
天空の城ラピュタ』ナレーション『炎立つ

 受賞
毎日映画コンクール
男優主演賞
1969年肉弾ヨコハマ映画祭
主演男優賞
1986年ラブホテル

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寺田 農(てらだ みのり、1942年昭和17年〉11月7日[1][3] - 2024年令和6年〉3月14日)は、日本俳優声優。本名同じ[4]。最終所属は株式会社CESエンタテインメント[1]
来歴
生い立ち

1942年11月7日、洋画家の寺田政明の長男として誕生[5]東京府東京市(現在の東京都[3]豊島区椎名町生まれで、幼少期に板橋区常盤台に転居[4]。このため、媒体によって豊島区出身または板橋区出身[6]、とされる。

本名の「農」(みのり)は、父 政明により、後漢の詩碑にある一文字から名付けられた[4]。5歳のころに板橋区常盤台に引っ越し、遊びの一環として絵を描き始める。父に絵を教わったことはなかったが、小学2年生に描いたカレイの絵が文部大臣賞に選ばれた[4]。しかし小学3年生になるとサッカーを始めたり、カントリー&ウエスタンを聴くようになり、絵の興味は薄れた[4]
学生時代

中高時代はサッカー部でキャプテンを務めた[4]東京都立志村高等学校1年生のころにアルフレッド・ヒッチコックの映画『めまい』を観て、主演女優のキム・ノヴァクに憧れた[4]。当時父が新聞小説の挿絵を描いていた関係から、家にはよく新聞記者が出入りし、尾崎士郎などの作家も時々訪れていた。この影響を受け、当時の将来の夢は新聞記者になることだった。

記者を目指して早稲田大学第二政経学部[注 1]の入試面接を受けると、面接官の教授が偶然同大学サッカー部部長だった。その人物から内申書を見ながら「君はサッカー部に入りたくて早稲田を受けたのか?」と聞かれ、とっさに「もちろんです!」と答えた。このやりとりもあって同大学に合格し、面接で言った手前、入学後はサッカー部に入部した。ただし強豪チームだったため、予想以上に練習が厳しかった[注 2]

1961年19歳の頃、文学座研究生となった事から、2年生の時点で早稲田大学第二政治経済学部中退[6]
俳優・声優として

1961年文学座附属演劇研究所に第一期生として入所[3][7]。同期に岸田森草野大悟橋爪功樹木希林(悠木千帆)、小川眞由美北村総一朗などがいる[8]。当時18歳の寺田と樹木は、第一期生の中で一番年下だった[4]

1961年の暮れ、研究生時代に『十日の菊』(三島由紀夫 作)文学座での初公演で初舞台を踏む[4]

1964年劇団雲の研究生となり[6]1965年には五所平之助の監督作品『恐山の女』(松竹)で映画デビュー[6]。同年のテレビドラマ『青春とはなんだ』(日本テレビ系)、翌年の『これが青春だ』などの学園ドラマで人気を得て、新進気鋭の俳優として注目を集める[4][6]1968年岡本喜八の監督映画『肉弾』の主演に抜擢され、毎日映画コンクール男優主演賞を受賞[4][6]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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