寺村
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寺村氏(てらむらし)は、日本の氏族のひとつ。
宇多源氏佐々木氏流

寺村氏
丸に隅立て四つ目結
本姓宇多源氏佐々木氏流?
種別武家
出身地近江国蒲生郡寺村[注釈 1]
主な根拠地

近江国土佐国
著名な人物寺村小八郎
寺村半左衛門
凡例 / Category:日本の氏族

宇多源氏佐々木氏の庶流と称した。家紋は佐々木氏の代表家紋である「平四つ目結」から派生した「丸に隅立四つ目結(まるにすみたてよつめゆい)」など。近江国蒲生郡寺村の領主であったことから寺村の姓を名乗るようになり、室町時代には近江国の守護大名となった六角氏に仕えたとされる。六角氏の家臣の多くは国人領主であり、被官化されていたとはいえ独立性が高かった。1563年永禄6年)に六角氏の御家騒動(観音寺騒動)が起こると、六角氏本家だけではなく、南近江の国人連合の結束と勢力の衰退につながり、さらに六角氏が観音寺城の戦い織田信長の上洛軍に敗れると、寺村氏一族は、浅井長政に仕える者、羽柴秀吉に仕える者、山内一豊に仕える者、蒲生氏郷に仕える者、蒲生郡小野村に居住する者などに分かれた。
近江寺村氏

寺村小八郎は、浅井長政に仕え、1570年姉川の戦いに従軍し、以後1573年まで4年にわたり小谷城に詰めた。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}最後まで浅井家への忠誠を変えない者たちに長政は感状を与えたが、有名なのが寺村小八郎に与えたもので、「ここ4、5年骨身惜しまぬお働き忠節これに勝るもの無く、ことに今度の籠城は誠に神妙に存じ候。愈々この上ともご奔走が大切、心底より望むところ確かりと申し付け候」がある[要出典]。

寺村盛久(寺村半左衛門)は、蒲生氏郷に仕え、天正年間には近江国の寺村城に居城した。蒲生氏郷の伊勢、会津への移封に従い、葛西大崎一揆の平定にあたっては、氏郷本隊の三段目を任された。
本陣寺村氏(近江)

六角氏の滅亡後に、寺村行隆と、その子寺村規行は病身であることから武士を捨てて小野村に移り、本陣役を務めるようになった。寺村規行には2人の兄弟があり、共に長浜城主であった山内一豊に仕え、のちに土佐へ入った。佐和山城の落城後は小野宿は廃止され、1603年慶長8年)、中山道の整備に伴って小野村から鳥居本に宿場が移った時、小野宿で本陣役を務めていた寺村庄兵衛は鳥居本に移り、引き続き鳥居本宿でも本陣役を務めた。寺村規行から数えて10代目の寺村義貴の時に、本陣は廃止となった。

本陣寺村家の家紋は「五段梯子(はしご)」であるが、『綱要日本紋章学』(昭和52年)[要ページ番号]によれば、「土佐山内氏家臣寺村氏が、梯子を用ひて天正十八年山中城に乗り込んだ武功を紀念するために用ひた」のが梯子紋の歴史上の登場とされている。
土佐寺村氏

寺村氏
鶴丸、五段梯子
本姓称・真宗大谷派一門大谷本願寺門跡親族
家祖寺村相模守
種別浄土真宗本願寺派武家
出身地近江国坂田郡北方村之小村「寺村」
主な根拠地近江国→土佐国
著名な人物寺村重友
寺村道成(日野春草)
寺村成雄(日野軍馬)
日野成文
凡例 / Category:日本の氏族

初代・寺村相模守

真宗大谷派の流れを汲む大谷本願寺の末流と称しており、高知県立図書館寄託(山内家宝物資料館所蔵)『御侍中先祖書系図牒』の「寺村寅太郎」家の項目には、「先祖・寺村相模守、本国近江」とあり、寺村相模守に関して「江州佐和山住人にて候、同国坂田郡之内北方村之小村「寺村」を以て名字を相唱え候、大谷本願寺門跡之甥の由」と記載されている。また「寺村成壽」家の項目には「先祖・寺村相模守」の箇所に「前名字・日野」と書かれている。寺村相模守の子・寺村甚右衛門重清は羽柴秀吉に仕えた。また寺村相模守の弟・寺村左近の長男・寺村喜斎之助重安も羽柴秀吉に仕え「武功数度之高名に依、従 秀吉公感状数通頂戴」とあり、「秀吉公羽柴筑前守之御時より摂津国下ノ城にて知行五百石被 下候、御判物相領七人之内、御旗頭・黄母衣役え被 仰付、日之丸の御紋被許」とある。その後、たびたび忠節に励んだが、弘治元年、備前青島合戦の時、毛利勢に対し抜駈けして合戦し討死した為、跡式を仰せつけられず断絶した。重安の弟・寺村重友は、この青島合戦の時が初陣であったが、兄の軍令違反のため、秀吉よりお預けの形で山内一豊に仕え、天正年間に近江長浜城主となった山内一豊に召し抱えられて直臣となった。
土佐入国以降

寺村重友は、山内一豊の遠江国掛川入封時は中老職400石、土佐国入封時は家老格4,400石を給され、土佐寺村氏の初代となった。2代目の寺村淡路重次は3200石、3代目の寺村主膳重昌は山内可氏[注釈 2]の三女を妻に迎えた。さらに4代目の寺村淡路重信は、山内可氏の子である山内定氏の長女を妻に迎えた。
幕末期

幕末には、寺村成相(中老格700石)の三男寺村道成(左膳)は参政として藩政の中枢にあった。薩長に近づきたい土佐藩は、ついに1867年(慶応3年)の6月に京都の三本木の料亭吉田屋において土佐藩と薩摩藩の首脳会談をもった。土佐からは後藤象二郎寺村道成、薩摩からは小松清廉・西郷吉之助(西郷隆盛)・大久保利通、仲介人として坂本龍馬中岡慎太郎が参加し、薩土盟約を締結した。盟約破綻後も大政奉還路線を進め、主君山内容堂ほか4名(後藤象二郎・寺村道成福岡孝弟神山左多衛)の連名で大政奉還建白書を提出した。幕末の政治活動を記した『寺村左膳手記』『寺村左膳道成日記』は、幕末の土佐藩の中心にいた人物の記録として貴重な史料である。
復姓の経緯

『御侍中先祖書系図牒』の「寺村成壽」家の項目には「先祖・寺村相模守」の箇所に「前名字・日野」と書かれており、幕末の当主・寺村成壽以降の人物「成壽、道成、成潔[1]」に「日野」と復姓した紙が貼られており、家紋は「鶴」、「二蝶梯子(二段梯子)」とある[2]


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