寺村 友和INVENTIVE41 監督
基本情報
国籍 日本
出身地千葉県千葉市稲毛区
生年月日 (1974-04-22) 1974年4月22日(50歳)
身長
体重180 cm
90 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1997年 ドラフト2位(逆指名)
初出場NPB / 1999年5月16日
CPBL / 2005年3月16日
最終出場NPB / 2003年4月7日
CPBL / 2005年4月7日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
千葉県立千葉商業高等学校
本田技研
千葉ロッテマリーンズ (1998 - 2000)
ヤクルトスワローズ (2001 - 2002)
大阪近鉄バファローズ (2003)
誠泰コブラズ (2005)
監督・コーチ歴
大東文化大学
深谷組
寺村 友和(てらむら ともかず、1974年4月22日[1] - )は、千葉県千葉市稲毛区出身[1]の元プロ野球選手(投手)。台湾での登録名は山崎 友和(やまざき ともかず)であり、山崎は現姓[2]。 小学校時代は軟式野球のヤングジャイアンツに所属。中学時代は硬式野球の千葉ジャガーズに所属し、高橋由伸は1年後輩に当たる。 千葉商業高等学校卒業後は本田技研に進み、1996年にチームが第67回都市対抗野球大会で優勝したが、入来祐作や補強の大塚晶文らがいたため、登板機会はなかった。 1997年のプロ野球ドラフト会議にて千葉ロッテマリーンズから2位指名を受けて入団[1]。 プロ入り後は球威はあるものの制球難に苦しみ、サイドスローに転向したもの、大きな結果には繋がらなかった。 2000年オフに山ア貴弘との交換トレードでヤクルトスワローズへ移籍。移籍1年目に先発や中継ぎとして2勝をマークしリーグ優勝に貢献。チームも日本一になったが日本シリーズの登板はなかった。 2003年に金銭トレードで大阪近鉄バファローズへ移籍したが、1年で退団。 2005年に台湾・誠泰コブラズに入団した[1]が、開幕してすぐ戦力外通告を受けた。 引退後は様々な職業につき[1]、松永浩美が主催する埼玉県三郷市の野球教室「松永浩美ベースボールアカデミー(M.B.A)」の投手コーチを務め、2011年11月に大東文化大学の野球部のコーチに就任[1]。また、小学生を対象とした野球教室を開校[3]。 イースタン・リーグで1球勝利投手になったことがある。 ロッテ時代の1999年8月31日(対ダイエー戦)で、村松有人の強烈なピッチャー返しを捕球した際にボールがグラブに挟まって取れなくなったため、グラブごとそのまま一塁手の初芝清に投げ、打者をアウトにするという好プレーを見せた[1]。 ヤクルト時代の2001年8月15日の対横浜ベイスターズ戦(神宮球場)で4?0の時に石井一久に代わって登板、試合を三振で締めくくったが最後の1球で思い切り転倒してしまった。 現役時代に肩痛に悩まされた経験から、整体師の資格も取得しながら8年間の研究の末、肩関節トレーニングの理論を構築し、さらにこの理論を実証するために2年かけてトレーニング器具を開発した。この器具を「KATALOGGY_tr」(カタロギートレーニング)と名付け、2023年現在特許出願中である[2]。 年
来歴
プロ入り前
プロ入り後
引退後
人物
詳細情報
年度別投手成績
度球
団登
板先
発完
投完
封無
四
球勝
利敗
戦セ
h
ブホ
h
ル
ド勝
率打
者投
球
回被
安
打被
本
塁
打与
四
球敬
遠与
死
球奪
三
振暴
投ボ
h
ク失
点自
責
点防
御
率W
H
I
P
1999ロッテ100000000------7517.1162800700752.601.38
200010000000------112.1510003003311.572.14
2001ヤクルト193000210--.66714733.13631110151017164.321.41
2002170000000------10223.0234801251014114.301.35
2003近鉄30000000------234.251500400435.792.14
2005誠泰51000000------7013.2242601111014149.222.20
NPB:5年503000210--.66735880.285113211542045384.241.45
CPBL:1年51000000------7013.2242601111014149.222.20
記録
NPB
初登板:1999年5月16日、対日本ハムファイターズ8回戦(千葉マリンスタジアム)、5回表1死に2番手で救援登板、1回無失点
Size:18 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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