寺山修司
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寺山 修司
(てらやま しゅうじ)
『思想への望郷:寺山修司全評論集(下)』大光社、1967年
誕生 (1935-12-10) 1935年12月10日[1]
青森県弘前市
死没 (1983-05-04) 1983年5月4日(47歳没)[1]
東京都杉並区河北総合病院[2]
墓地高尾霊園
職業歌人劇作家詩人俳人映画監督脚本家作詞家評論家
言語日本語
国籍 日本
最終学歴早稲田大学教育学部国文学科(現・国語国文学科)中退[1]
活動期間1956年 - 1983年
ジャンル短歌戯曲俳句作詞映画脚本評論翻訳
文学活動前衛短歌、アングラ演劇
代表作『われに五月を』
『田園に死す』
主な受賞歴短歌研究五十首詠(1954年)
芸術選奨新人賞(1974年)
シッチェス・カタロニア国際映画祭 最優秀監督賞(1985年
デビュー作『われに五月を』
配偶者九條今日子1963年 - 1970年
影響を受けたもの

@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}ガブリエル・ガルシア=マルケス
フェデリコ・フェリーニ
ジャック・プレヴェール
リヒャルト・ワーグナー
ツルゲーネフ
中城ふみ子芥正彦など[要出典]。

影響を与えたもの

芥正彦幾原邦彦唐十郎庵野秀明大槻ケンヂ笹公人劇団イヌカレー園子温高取英萩原慎一郎高橋ひとみ池田エライザなど[要出典]。

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寺山 修司(てらやま しゅうじ、1935年昭和10年〉12月10日 - 1983年〈昭和58年〉5月4日)は、日本歌人劇作家。演劇実験室を標榜した前衛演劇グループ「天井桟敷」主宰。

「言葉の錬金術師」「アングラ演劇四天王のひとり」「昭和啄木」などの異名[3][4]をとり、上記の他にもマルチに活動、膨大な量の文芸作品を発表した。競馬への造詣も深く、競走馬馬主になるほどであった。
人生
少年時代

1935年昭和10年)12月10日、父・八郎、母・ハツの長男として生を受ける[1]。八郎は東奥義塾弁論部OBで当時弘前警察署勤務の特高警察刑事。父の転勤のため、県内各所を転々とする。本人は出生について「走っている列車の中で生まれ、ゆえに故郷はない」などと記していたが、ハツと元妻の九條今日子によれば、青森県弘前市紺屋町生まれとされる。戸籍上は1936年(昭和11年)1月10日が出生日となっている[1]。これもハツによれば、「父の仕事が忙しく、産後保養していたため」という。ただし、戸籍の出生が正しいとの説もある。本籍地は青森県上北郡六戸村(現三沢市)。

1941年(昭和16年)、青森県八戸市へ転居。八郎出征のため、ハツと三沢市へ疎開。彼女はその後九州で働くために青森市の親類に修司を預ける。青森市マリア幼稚園入園。

1945年(昭和20年)、青森大空襲によりハツとともに焼け出される[1]。9月に八郎がセレベス島戦病死したとの公報を受け取る。終戦後は八郎の兄を頼り、三沢駅前(当時は古間木駅)の寺山食堂の2階に転居、古間木小学校に転校する[5]。ハツは進駐軍の米軍キャンプで働き、米軍差し押さえの民家に移る。

1948年(昭和23年)、三沢市立古間木中学校入学[1]。ハツが福岡県の米軍ベースキャンプへ移ったため、青森市の母方の大叔父である坂本勇三の映画館「歌舞伎座」に引き取られる[注釈 1]青森市立野脇中学校[注釈 2]に転校。

1949年(昭和24年)、坂本宅に引き取られる[1]。中学2年生で京武久美と友人になる[6]句作をしていた京武の影響を受け、俳句へのめり込んでいく。文芸部に入り、俳句や童話学校新聞に書き続ける。

1950年(昭和25年)、青森市営球場藤本英雄が達成した日本プロ野球史上初の完全試合を現地で観戦する。

1951年(昭和26年)、青森県立青森高等学校に入学し、新聞部、文芸部に所属する[1]。「山彦俳句会」を結成し[7]、高校1年生の終わり頃「校内俳句大会」を主催[8]。全国学生俳句会議結成。俳句改革運動を全国に呼びかける。京武と俳句雑誌『牧羊神』創刊、1954年(昭和29年)の第7号(1,5,6,7号)まで編集・発行を続ける[9]。同期生に沢田教一がいたが、たまに学校をサボって共に映画を鑑賞する程度で、特別親しい間柄ではなかったとされる。高校時代の寺山は坂本が新築した青森市松原の家に下宿し、堤川の堤防を通り青森高校に通学していた。
歌人としてデビュー大学時代の寺山。
知性社『知性』1955年12月号より

1954年(昭和29年)、早稲田大学教育学部国文学科(現・国語国文学科)に入学した。山田太一とは同級だった。早稲田大学短歌会に入る。寺山は12歳から13歳頃から短歌を詠み始めたというが、熱を入れて短歌を詠み始めるきっかけとなったのが短歌研究1954年4月号に掲載された、一般からの公募から選ばれ第一回五十首詠で特選となった中城ふみ子の「乳房喪失」であった。中城の作品は歌壇で大きな反響を生み、第二回の五十首詠の公募には第一回の約2倍の約800名からの応募があった。中城の短歌は歌壇の主に若手から強い支持を受けたが、寺山もまた中城の短歌に感動し、短歌を詠む意欲を高めた[10][11][12]

寺山は短歌研究の第二回五十首詠に「父還せ」と題して応募した。短歌研究編集長の中井英夫は寺山の作品を特選とした。後に中井英夫は自らのことを「いいものをいち早く見てとる眼を持っていてほとんど誤らない」と、自負を述べている。中央歌壇では無名であった中城ふみ子、寺山修司という稀有な才能を見い出したのは、名編集者中井英夫の慧眼あったればこそであった[13][14]

中井英夫は特選とした寺山修司の「父還せ」の発表に際して、多くの配慮をした。まず題名を「チェホフ祭」とし、既存歌壇からの反発などを考慮して17首を削り、短歌研究1954年11月号に第二回五十首詠特選として発表した。寺山は短歌研究1954年12月号に「火の継走」と題した入選者の抱負を発表している。その中で、.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}

僕に短歌へのパッショネイトな再認識と決意を与えてくれたのはどんな歌論でもなくて、中城ふみ子の作品であった。

と書いている[15]

中城ふみ子の「乳房喪失」は、既存歌壇からの激しい反発を浴びた。一方寺山の「チェホフ祭」は当初、比較的反発は少なかった[16]。しかしまもなく寺山は激しい批判、反発に晒されることになる。寺山は俳句の世界でも注目を浴びていた。寺山の短歌が中村草田男西東三鬼らの俳句作品の模倣であるとの批判が、俳句界から上がったのである。楠本憲吉は寺山の短歌に対して「俳句はクロスワードパズルではない」と、激しい反発を露わにし、寺山のことを「模倣小僧」と揶揄する声が上がった[17]。実際、中村草田男のよく知られた俳句を短歌として引き写したかのような作品もあって、批判を受けることはやむを得なかった[18]。模倣問題が明るみに出ると、俳句界から始まった批判は歌壇にも広まり、袋叩きの様相を呈するようになった[19]

寺山を第二回短歌研究五十首詠特選とした中井英夫は、歌壇からの批判に真の意味での新人を欲しない、守旧的な体質を見た。中井は寺山擁護の論陣を張った[20][19]。中井は写実を基本とする既存短歌のあり方に疑問を持たない、歌壇に激しい不満を抱いていた。乳がんで死を目前とした中城ふみ子の不幸の演技性を帯びる短歌、まだ十代のみずみずしい青春ドラマのような寺山修司の短歌は、作品としては極めて大きな違いがあるものの、ともに平板な日常詠をよしとした既存短歌の世界からの極めて大きな飛躍であったという面において、同じ方向性を持っていた。中井にとって生命力を失いつつあった写実詠を基本とした既存短歌に対するアンチテーゼとして、寺山修司の短歌は守っていかねばならないものであった[21][22]

寺山の短歌は、当初から寺山本人自身を短歌に託すというよりも、あくまで自己表現の一手段として使いこなす傾向が顕著であった。そのため、短歌を自らの感情を増幅させ、変換させたフィクションの世界として創り上げていった。寺山は短歌による文壇デビュー以降、評論、詩、演劇、映像などに多彩な才能を開花させていくが、寺山にとっては別ジャンルの媒体ではなく、同時に繰り広げられていく世界のものであった。狭いひとつのジャンルに留まることなく、寺山自身のいわば寺山ワールドを様々な形で繰り広げていくのが寺山の芸術の大きな特徴であり、後に「職業は寺山修司です」と自称した寺山は、コラージュ、モンタージュ等の技法を駆使し、事実と虚構が入り混じる世界を構築していった[23][24]

1955年、19歳の寺山はすでに

ほんとに自分に誠実であるためには、どんな手段でもとっていいたいことをいうべきだ。そこになんかの形で修飾や風刺や、演技ということが入ってくるんで、そういうものを見ると目の色変えてポーズだなんてけなすのは滑稽だと思う。彼らにはほんとにいいたいことがないってことじゃないか……

と語っている[25]

「チェホフ祭」で第二回「短歌研究」新人賞を受賞する[1]

混合性腎臓炎で社会保険中央総合病院入院1955年(昭和30年)、ネフローゼ診断されて長期入院となり、翌年、在学1年足らずで退学、生活保護を受ける[1]。この時代の輸血技術は洗練されたものではなかったが、当時としては唯一の治療法であった。また、前述の説明を医師から受けた寺山は、この頃から自身の死を意識し始め、友人の横尾忠則に「長くは生きられない」ともらしていたと言う。そして、実際これが晩年の肝硬変を引き起こしたと言われている。[26]
シナリオ作家として

処女戯曲『忘れた領分』が早稲田大学大隈講堂「緑の詩祭」で上演され、それを観た谷川俊太郎の病院見舞いを受け、交際が始まる。


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