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てらお あきら
寺尾 聰
生年月日 (1947-05-18) 1947年5月18日(76歳)
出生地 日本・神奈川県横浜市保土ケ谷区
国籍 日本
身長176 cm
血液型A型
職業俳優・ミュージシャン
ジャンル映画・テレビドラマ・演劇・AOR
配偶者范文雀(1973年 - 1974年)
星野真弓
著名な家族宇野重吉(父)
事務所寺尾事務所
主な作品
映画
『同胞』
『男はつらいよ』
『乱』
『夢』
『まあだだよ』
『失楽園』
『雨あがる』
『阿弥陀堂だより』
『半落ち』
『博士の愛した数式』
『亡国のイージス』
『さまよう刃』
『ラーゲリより愛を込めて』テレビドラマ
『おくさまは18歳』
『大都会』
『大都会 PARTIII』
『西部警察』
『太陽にほえろ!PART2』
『合い言葉は勇気』
『こころ』
『優しい時間』
『軍師官兵衛』
『ようこそ、わが家へ』
『仰げば尊し』
『陸王』
『特捜9』
『ラストマン-全盲の捜査官-』教養番組
『世界遺産』(ナレーション)
受賞
日本アカデミー賞
最優秀主演男優賞
第24回『雨あがる』
第28回『半落ち』優秀主演男優賞
第26回『阿弥陀堂だより』
第30回『博士の愛した数式』
優秀助演男優賞
第21回『失楽園』
ブルーリボン賞
主演男優賞
2004年『半落ち』
その他の賞
紫綬褒章(2008年)
旭日小綬章(2018年) 第23回日本レコード大賞(1981年)
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寺尾 聰(てらお あきら、1947年〈昭和22年〉5月18日 - )は、日本の俳優・ミュージシャン。所属事務所はホリプロダクション→石原プロモーション→寺尾事務所(自らの個人事務所)。父は俳優の宇野重吉。既婚。3児の父。
神奈川県横浜市保土ケ谷区出身。目黒区立第十中学校、和光学園、法政大学第二高等学校、文化学院卒業。 劇団民藝の創設者である宇野の長男として生まれたが、この境遇に反発し音楽に傾倒。1965年に奥島吉雄、林廉吉らが結成したカレッジ・フォーク・グループ「ザ・サベージ」に加入し、ベースを担当した。1966年に「いつまでもいつまでも」でレコードデビュー、この曲と2枚目の「この手のひらに愛を」が大ヒットするが、すぐにグループを脱退した。1968年、三保敬太郎を中心としてザ・ホワイト・キックスというグループ・サウンズに参加、シングルを1枚出して解散。同年には、石原裕次郎製作・主演の映画『黒部の太陽』で俳優デビューを果たす。石原軍団入りするきっかけは、当初宇野の主宰する劇団民藝に一研修生として入団を希望したが、宇野本人から「たとえ研修生扱いでもマスコミは親の七光りとして見るだろう」という理由で、宇野と懇意だった石原を紹介されたという[1]。 これを機に裕次郎の門下となり、石原軍団の若手有望株として、主にテレビドラマに出演、青春ものドラマなどで二枚目半的な役柄を演じることが多かった。また、『大都会』では新聞記者、『大都会 PARTIII』(日本テレビ)、『西部警察』(テレビ朝日)など、石原プロモーション制作のアクションドラマでは刑事役で活躍した。このころはサングラスをかけ、ニヒルな表情がトレードマークだった。 ソロとしての歌手活動では、ヨコハマタイヤのCM曲だった「SHADOW CITY」のほか「ルビーの指環」「出航 SASURAI」が大ヒットし、「ルビーの指環」は第23回日本レコード大賞をはじめとする多くの賞を受賞した。これを含め、同時期に発表したソロアルバム『Reflections』は、当時のアルバムセールスを更新する(164万枚。井上陽水の『氷の世界』の売り上げ記録を8年ぶりに更新し、以後1990年に松任谷由実『天国のドア』に破られるまでトップであった)空前の大ヒットとなり、本格的に音楽活動を再開することとなった。
来歴