寺尾次郎
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寺尾 次郎
誕生 (1955-06-11)
1955年6月11日
日本 東京都
死没 (2018-06-06) 2018年6月6日(62歳没)
職業翻訳家
国籍 日本
最終学歴慶應義塾大学
活動期間1980年代 - 2010年代
ジャンル映画字幕
子供寺尾紗穂(長女)
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寺尾 次郎
生誕 (1955-06-11) 1955年6月11日
出身地 日本 東京都
死没 (2018-06-06) 2018年6月6日(62歳没)
学歴慶應義塾大学卒業
ジャンルソフトロック
職業ミュージシャン
担当楽器ベース
活動期間1970年代
共同作業者シュガー・ベイブ

寺尾 次郎(てらお じろう、1955年6月11日[1][2] - 2018年6月6日[3])は、日本の映画字幕を中心とした翻訳家、元ミュージシャンである[4]シュガー・ベイブメンバー、映画美学校講師[5]を歴任。映画翻訳家協会会員[5]
人物・来歴

東京都生まれ[6]慶應義塾大学卒業。

1974年(昭和49年)に学生時代の佐野元春のバンド「バックレーン元春セクション」にベーシストとして加入。翌1975年(昭和50年)にはハイ・ファイ・セットのバックバンドに在籍、同バンドに後から参加した伊藤銀次上原裕と共に活動する。同時期、リズムセクションの強化を考えていた山下達郎からシュガー・ベイブへの誘いを受け、同年3月より伊藤・上原と共にメンバーとなる。同年4月25日、アルバム『SONGS』がリリースされる[7]。同年6月25日にリリースされたガロのアルバム『吟遊詩人』では、細野晴臣と連名でベーシストとしてクレジットされている。

以後、1976年(昭和51年)のシュガー・ベイブ解散まで活動し、その後、同年まで、山下と伊藤が参加した大瀧詠一が主宰するナイアガラ・レーベルをめぐるセッションのほか、同年3月25日にリリースされた『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』のレコーディングに参加する。同じく、ソロとなった山下のライヴや『資生堂 MG5』等のCM音楽制作、大貫妙子のライヴや同年9月のアルバム『Grey Skies』、小室等のレコーディングなどにも参加した。同年12月23日、山下のソロライヴを最後に大学に戻り、ベーシストとしての活動の形跡はない。

1981年(昭和56年)、のちにシンガーソングライターエッセイストとなる娘の寺尾紗穂が誕生する。

バンド在籍時から、東京にある国立のフィルム・アーカイヴであるフィルムセンターに通うほどの映画好きが高じて、時期は不明だが山田宏一に師事し、1980年代後半(昭和60年代)からフランス映画を中心に字幕翻訳に着手する。初期の作品は、デイヴィッド・クローネンバーグ監督の『デッドゾーン』(1983年製作、1987年日本公開)、ジャック・ドワイヨン監督の『ラ・ピラート』(1984年製作、1989年日本公開)等で、1989年(平成元年)には渋谷にオープンした映画館ル・シネマの開館作品『遠い日の家族』(監督クロード・ルルーシュ、1985年製作)を手がけている[8]

1993年、シンガーソングライターの竹内まりやからのオファーを受けてシングル「幸せの探し方」のフランス語の歌詞を手掛ける。また、フランス語の発音指導もする。

1997年(平成9年)には、上映時間9時間30分におよぶクロード・ランズマン監督のホロコーストをめぐる映画『SHOAH ショア』(1985年)の膨大な字幕翻訳を手がけている[9]。手がけた字幕翻訳は、劇場公開作だけでも200作を超え[8]、そのほかにも多くの映画祭で上映作品の字幕翻訳を手がけている[5]

2018年(平成30年)6月6日胃癌のため死去。


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