寺尾常史
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寺尾 常史

土俵下の錣山親方(2016年5月22日)
基礎情報
四股名寺尾 節男→源氏山 力三郎→寺尾 節男→寺尾 常史
本名福薗 好文
愛称アビ[2]、タイフーン、土俵の鉄人
生年月日 (1963-02-02) 1963年2月2日
没年月日 (2023-12-17) 2023年12月17日(60歳没)
出身鹿児島県姶良郡加治木町(現・姶良市)
身長185cm
体重116kg
BMI33.89
所属部屋井筒部屋
時津風一門
得意技突っ張り、押し、いなし、叩き、下手投げ
成績
現在の番付引退
最高位東関脇
生涯戦歴860勝938敗58休(140場所)
幕内戦歴626勝753敗16休(93場所)
優勝十両優勝2回
敢闘賞3回
殊勲賞3回
技能賞1回
データ
初土俵1979年7月場所[1]
入幕1985年3月場所[1]
引退2002年9月場所[1]
引退後年寄錣山(後に錣山部屋を創設)
時津風一門無所属二所ノ関一門
趣味パチンコ、ゴルフ、音楽鑑賞
備考
金星7個(大乃国3個、千代の富士1個、北勝海1個、貴乃花1個、武蔵丸1個)
2023年12月17日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

寺尾 常史(てらお つねふみ、1963年昭和38年〉2月2日 - 2023年令和5年〉12月17日[3])は、鹿児島県姶良郡加治木町 (現在の姶良市)出身(出生地は東京都墨田区)で井筒部屋に所属した大相撲力士。本名は福薗 好文(ふくぞの よしふみ)。得意技は突っ張り、押し、いなし、叩き、下手投げ。最高位は東関脇。身長185cm、体重116kg。

引退後は年寄錣山となり、井筒部屋部屋付き親方を経て、分家独立し、錣山部屋の師匠として指導にあたった。角界での愛称は「土俵の鉄人[注 1]」、「アビ」[注 2]血液型はA型、趣味はパチンコ、音楽鑑賞、ゴルフ[1]
来歴寺尾の手形
生い立ち

生まれ育ったのは父・鶴ヶ嶺が住居兼相撲部屋を構えた墨田区であるが、大相撲入り後は父の出身地である鹿児島県を自身の出身地として届け出た。父・鶴ヶ嶺は厳格な人物であり、その影響で小さいころから父に対しては敬語を使っていたという。実際、父は年寄・13代井筒としても「何かあったら、まず自分の息子から叱る」としていた[4]

そんな父は息子達に甘くすると弟子に示しが付かないと考えていたようであるが、体罰は滅多に行わなかった。特に寺尾の場合は母が亡くなった直後の入門だったため、父としても寺尾が不憫で体罰はやりにくかったという。母は寺尾曰く「お嬢様育ちなのに、どこか大雑把で豪快だった」とのことで、偶に三越の特選売り場で上下10万円の服を買って来て「こっちは安くても数が欲しいのに(笑)」と寺尾を苦笑させたという[5]

墨田区立二葉小学校墨田区立両国中学校を卒業。兄二人とは異なり小・中学校時代は相撲に興味がなかったが、安田学園高校入学後、上級生の嶋津慎司(のち井筒部屋の幕下・紫筒山)に誘われ相撲部に入る[6]。安田学園では控え選手に過ぎなかったが、厳しい稽古を乗り越えて試合で勝つことの爽快感から相撲にのめりこむようになり2年生の時には一日も早く角界入りしたいと思うようになっていた。長兄が次兄の入門の際に強硬に反対したことから角界入りしたいという気持ちをなかなか言い出せないでいた[7]。しかし1979年(昭和54年)5月場所の千秋楽の日、ガンで闘病中であった最愛の母を見舞った後、長兄に突然「お前、学校やめて相撲取りになったらどうだ?」と声を掛けられた[7]。その後、母の通夜の晩に父に入門の意思を伝え、そのまま高校を中退した(母・節子は死ぬ間際に「相撲取りになって」と寺尾に告げていた。寺尾は後年インタビューで「あのお兄ちゃんの言葉は、おふくろの置きみやげだったと思ってるんですよ。きっと俺の気持ちを判っていて、相撲取りにならせてくれたんだな、って」と往時を振り返っている[7])。
入門後

父が師匠を務める井筒部屋へ兄達に続いて入門し、1979年7月場所初土俵。母の旧姓と名前を一字取った「寺尾節男」を四股名とした[1]。。1984年(昭和59年)7月場所新十両のとき「源氏山力三郎」と改名する。源氏山の四股名は同部屋に所属した30代横綱西ノ海が横綱昇進直後の場所まで名乗ったものであり、父自身も憧れの四股名であったことから息子に贈ったものである[8]。この四股名は1場所限りで、翌場所から元の四股名に戻している[注 3]1985年(昭和60年)1月場所で12勝3敗の成績で十両優勝し翌場所新入幕。入幕時のインタビューで「名脇役になれればいい。主役にはなれないと思うので」と答えていた[9]。6勝9敗と負け越して陥落するが翌場所も12勝3敗の成績で2度目の十両優勝で1場所で返り咲く。1987年(昭和62年)11月から名を常史(つねふみ)と改める。

入門当初は三段目昇進を目標にするほど、自身を期待薄と見ていた[10][9]入門前の高校の相撲部の同期の中でも一番弱く、自分に期待はしていなかった。また、相撲教習所の稽古で北勝海が四股を踏んで両足の周りと顔の下の3点に汗だまりを作っていたのを見て、度肝を抜かれた。体が小さく胃腸も決して強いほうではなかった寺尾は「同期で一番最初にやめるのは自分だろう」と思っていたという。だが相撲部屋の息子が弱いというのは屈辱だと感じ、次第に相撲に真剣に取り組むようになった。寺尾にとって、生まれて初めて夢中になって自分の意志で一生懸命取り組んだのが相撲であった[11]

初土俵の時に85kgしかなかった体重を100kgまで増やすために大変な努力をしたという。横になると口から食べたものが出る程食べ、夜も食べ物が胃から腸に下りるまで壁に寄りかかり、横になれるのは明け方から数時間程度という生活を約5年続け、100kgの大台に乗ったのは1984年(昭和59年)9月場所のことである[12]
幕内定着後

長兄の鶴嶺山は十両止まりだったが、次兄の逆鉾は関脇まで昇進していて様々な兄弟記録を残している。1986年(昭和61年)9月場所には同時三賞受賞、1989年(平成元年)3月場所には同時関脇を果たした。また1990年(平成2年)11月場所には千代の富士横綱土俵入り太刀持ち露払いを務めた。

大乃国から1988年1月場所、1989年7月場所、1991年1月場所、と3個の金星を獲得。1989年1月場所、千代の富士から唯一の金星を獲得。1991年11月場所、北勝海に勝ち5個目の金星を獲得するなど活躍。1989年1月場所は1横綱2大関に勝ち殊勲賞、7月場所も1横綱2大関に勝ち技能賞、9月場所は北勝海に勝ち敢闘賞。1991年3月場所11日目に貴花田との相撲一家生まれのサラブレッド対決を行って敗れて以降は自身の目標が「打倒!貴花田」一本になった[11]。1994年3月場所は2大関に勝ち敢闘賞、5月場所も2大関に勝ち殊勲賞。1995年(平成7年)3月場所には、大横綱の貴乃花から初の供給となる金星を獲得した。


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