寺子屋
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この項目では、江戸時代の庶民を対象とした学問施設について説明しています。『寺子屋』の通称で知られる歌舞伎の演目については「菅原伝授手習鑑」をご覧ください。

「寺小屋」はこの項目へ転送されています。愛媛県などで事業展開している学習塾については「寺小屋グループ」をご覧ください。
寺子屋の筆子と女性教師
一寸子花里「文学ばんだいの宝」

寺子屋(てらこや)とは、江戸時代上方において、寺院で手習師匠が町人の子弟に読み書き計算等を教えた学問施設
概要

「寺子屋」の名称は上方で用いられ、江戸における町人の子弟の学問施設は「筆学所」「幼童筆学所」と呼ばれた[1]屋号は学問の場の名称として適切ではない、と考えられていたからである。なお、現代では「寺小屋」と表記することもある[2][3]
沿革

寺子屋の起源は、中世の寺院での学問指南に遡ると言われる[4]。その後、江戸時代に入り、商工業の発展や社会に浸透していた文書主義などにより、実務的な学問の指南の需要が一層高まり、江戸時代中期(18世紀)以降に益々増加し、幕府御用銅山経営、西江邸内には江戸中期創建の手習い場が現存している。特に江戸時代後期の天保年間(1830年代)前後に著しく増加した。1883年文部省が実施した、教育史の全国調査を編集した『日本教育史資料』(1890-1892年刊 二十三巻)による開業数の統計では、寺子屋は19世紀に入る頃からさらに増加し、幕末の安政から慶応にかけての14年間には年間300を越える寺子屋が開業している。同資料によると全国に16560軒の寺子屋があったといい、江戸だけでも大寺子屋が400-500軒、小規模なものも含めれば1000-1300軒ぐらい存在していた。また経営形態も職業的経営に移行する傾向を見せた。幕末に内外の緊張が高まると、浪人の再就職(仕官)が増えた事により、町人出身の師匠の比率が増え、国学の初歩である古典を教える寺子屋も増えるなど、時代状況に応じて寺子屋も少しずつ変化を遂げて行った。

1872年学制が敷かれると、明治政府は校舎建設や教員養成の追いつかない初期の小学校整備にあたって、既存の教育施設である寺子屋を活用した[5]地方政府は寺子屋の調査を行い、師匠の旧身分などを記した調査書を作成し、適当な者を小学校の教師として採用した。学制では小学校の教員資格は「小学教員ハ男女ヲ論セス年齢20歳以上ニシテ師範学校免許状或ハ中学免許状ヲ得シモノ」と定めていたが、仮教員として採用されたのち、教員講習所で講習を受ければ正規の教員となることができた[6]。また大規模な寺子屋はそのまま初期の小学校として使用された。
寺子屋の詳しい方内容
課程

寺子屋はまったくの私的教育施設であり、一定した就学年齢は存在しない。これは現代で言う無学年制フリースクールと同様である。筆子は下はおよそ9-11歳から通い始め13?18歳になるまで学ぶなど、幅広い年代層の者がいた[7]

寺子屋は年齢による一斉入学・一斉進級ではなく、入学時期や進級時期について一般的な決まりはなかったが、地域や学校によって異なっていた[8]。寺子屋への入学は家の慶事とされており、気候の良い春先の入学が多かった[8]。進級も基本的に個人の能力に合わせて進級する仕組みだった[8]

卒業時期や修学期間も特に定まっていなかった。1校当たりの生徒数は、10-100人と様々であった。
教員

明治初期、東京府が小学校整備のため実施した寺子屋の調査書に、寺子屋の教師(師匠)726名分の旧身分が記録されている。多いのは平民(町人)で、雑業、農民、商人などの江戸の町人で、次に多いのが士族である。女性の師匠も86名が記載されており、麹町の土肥丈谷や黒川惟草の門下の者が見られる。一方で地方によっては士族の教師が最も多い地方や、平民に次ぎ僧侶の教師が多い地方も存在していた[9]

例えば、備後国深津郡の川口・多治米地域を例にとると、幕末期には合計7ヶ所(ただし、そのすべてが同時に存在したわけではない)の寺子屋が存在し、師匠の内訳は、庄屋1人、村役人2人、医者1人、僧侶2人、その他1人であった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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