寧宗 趙拡
南宋
第4代皇帝
王朝南宋
在位期間紹熙5年7月5日 - 嘉定17年閏8月3日
(1194年7月24日 - 1224年9月17日)
都城臨安
姓・諱趙拡
諡号法天備道純徳茂功仁文哲武聖睿恭孝皇帝
廟号寧宗
生年乾道4年10月18日
(1168年11月18日)
没年嘉定17年閏8月3日
(1224年9月17日)
父光宗(第2子)
母慈懿皇后李氏
后妃恭淑皇后韓氏
恭聖仁烈皇后楊氏
陵墓永茂陵
年号慶元 : 1195年 - 1200年
嘉泰 : 1201年 - 1204年
開禧 : 1205年 - 1207年
嘉定 : 1208年 - 1224年
子養子 : 趙ホ(理宗)
寧宗(ねいそう)は、南宋の第4代皇帝。光宗の次男。 乾道4年(1168年)、当時に恭王であった光宗と李氏の間に生まれた。淳熙5年(1178年)、明州観察使を授けられて英国公に封ぜられ、淳熙12年(1185年)に安慶軍節度使・平陽郡王となった。光宗の即位後は少保・武寧軍節度使を拝命され、嘉王に進封した。紹熙年間には嘉王を皇太子に立てようとする光宗と、これに消極的だった寿皇(孝宗)間の葛藤が高まり、立場が微妙になったりもした。 紹熙5年(1194年)、病弱な父が趙汝愚と太皇太后呉氏によって廃位になると、皇帝に即位した。政変の過程で趙汝愚に協力した韓?冑は、韓皇后の同族である縁故で大きな権力を有するようになり、趙汝愚を失脚に追いやって独裁体制を確立した。この時、反対勢力の一人でもある朱熹も共に追放して、その理学を禁止している(慶元党禁)。このような強引な手法で政敵らを排除する方針に怨嗟の声は高まっていたが、開禧元年(1205年)に韓?冑が平章軍国事に任ぜられながら、なおも実権を掌握され続けた。韓皇后が死去して皇室の後ろ盾を失った韓?冑は、権力維持のため金に対する大規模な北伐に着手した。しかし情報や準備が不十分なこともあって戦況はすぐに不利となり、金と内通した四川の呉曦
概要
治世後期の国政は宰相として臨んだ史弥遠が専断する状況になった。寧宗には9人の息子がいたが、いずれも夭逝した。このため、趙徳昭[1]の末裔である趙詢(景献太子)を宮中に入れて養育し、開禧3年(1207年)に皇太子に立てた。嘉定13年(1220年)、趙詢が亡くなると、代わりに趙徳芳[2]の九世の孫で、元は寧宗の従兄弟にあたる沂王趙ネちょうへい[3]の後嗣であった趙(趙希瞿の実子)を後継者とした。しかし趙рソょうこうは史弥遠を牽制しようとする動きを見せて警戒を買い、趙徳昭の九世の孫にあたる趙ホちょういん(後の理宗)を民間から探し出した史弥遠は、秘密裏に陰謀を画策した。
嘉定17年(1224年)、寧宗の崩御に際して遺詔を偽造した史弥遠の工作により趙рヘ廃黜され、趙ホが擁立されている。
人物
即位前に高宗の霊柩を葬るために紹興に行った際、農民らが田畑で苦労して働く姿を見て「宮中にだけ住んでいたので、どうしてこれを知ることができようか?」と嘆いている[4]。
恭倹な性格で節制された生活を守ったという。ある年の小正月、夜中に蝋燭を灯して座っていたのに、宦官が宴会を開くように勧めると、外間の民は食べ物がないと拒否した。また、臨安郊外の花園である聚景園に行幸してから還宮の途中、皇帝の御容を見物するために集まった群衆が押し合い圧死する事故が発生したことがあった。この時の不祥事を悔やんだ寧宗は、皇宮外への出入りを控え始めた[5]。
「吐くのが恐いなら酒を少なく飲み、痛みが恐いなら冷たいものを少なく食べる」という信条を小さな屏風に記しておき、これを2人の宦官に背負わせながら常に帯同させた。酒を飲んでも3杯以上は飲まなかった[6]。
嘉泰年間、西湖に船を浮かべて遊覧を楽しもうとした。しかし「慈懿皇后の陵墓は湖畔にあります。陛下が遊行なさるなら追悼の意味はなくなります」と諫めを受けると、すぐに断念した[7]。
宗室
后妃
正室:韓皇后(恭淑皇后)
次男:趙 - 夭折
三男:趙坦 - 夭折
継室:楊桂枝(恭聖仁烈皇后)
四男:趙増 - 夭折
五男:趙? - 夭折
側室:?、曹氏
側室:夫人鍾氏
六男:趙圻 - 夭折
七男:趙? - 夭折
ほか多数
美人閻氏、才人呉氏
紅霞?張氏、紅霞?王氏、紅霞?田氏、紅霞?包氏
紫霞?王氏、紫霞?呉氏、紫霞?王氏、紫霞?張氏、紫霞?王氏