寡戦
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寡戦(かせん)とは、小勢にて大勢と戦うことをいう[1]。「寡(か)」は「少ない」の意[2]で、『孫子』にも「衆・寡(多い兵、少ない兵)」の意で用いられる他、『孟子』においても、「寡は衆に敵せず(少ない者は多い者には敵わず)」と記される。これは春秋戦国時代がライバル国多数が前提であり、小軍で一度勝てたとしても、疲れ切ったところを別の敵国軍に襲われて国が滅びれば、結果的には負けであるための思想である[3](ゆえに『孫子』では寡戦は説かない[4]。後述)。
兵法・戦略書における寡戦

日本の兵法書である『闘戦経』第三十章には「小虫の毒有るは天の性か。小勢を以って大敵を討つ者も亦た然るか」と記され、この一文は本能的なものについて語ったものと解釈される[5]。また第四十章にも「単兵にて急に擒(とりこ)にする者は毒尾を討つなり」と記すが、単兵とは小部隊であり、毒尾とは脅威が大きく攻めやすい部位(尾自体は細い)を指す[6]クラウゼヴィッツの『戦争論』では、「戦場の広さや戦闘力の強さに関係なく、戦場とそこに集結された戦闘力とは一個の重心(作戦本部や政治中心の首都など)によって集結されている。ということは、勝敗はこの重心に左右される」と記し、戦闘の勝敗は戦闘力の強さではなく重心をいかに攻めるかということを説く(重心を攻めた例として、織田信長桶狭間の戦い竹中重治の家臣16人による岐阜城の乗っ取り)。

上泉信綱伝の『訓閲集』(大江家兵法書を戦国風に改めた兵書)巻四「戦法」寡戦の項には具体的な戦法例が記されており、一部を挙げると、「大軍に囲まれたら備え手が準備を合わせる前に合戦を仕掛ける[7](タイミングを説いたもの)」、「切所(難所)を打て、夜軍(夜戦)がよく、小勢と気づかれず相手が驚く」と記し、「平地で戦うな」とも説くが、「やむを得ず(平地で)戦う場合は、備えの片端の薄きところを攻めよ。これは追い詰められた際でも同じ」とする。「敵が三方を囲み、一方を開けている際は、むしろ敵がいる方を攻めよ(敵の意図通りにはまるな)」、「切所がなければ、柵・土居・堤などにも引きかけて、鉄砲で敵を疲れさせた上で合戦せよ(隙がないのであれば、疲弊させろ)」、「1人だけ高い所に上がり、扇子を開いて、味方の後ろに向かって後軍を招く体(しぐさ)をして、敵に見せ、味方を退かせれば、敵は追軍しない(伏兵を怪しむため)」、「四方より囲まれた際は、中央に騎・歩兵、その周囲に弓・鉄砲を備え、放ちながら退く」、「味方が5、600の時、敵が千、2千なら勝つ術があるが、味方が10、20では勝てないので謀(はかりごと)をなして退くべし(4倍前後の差なら工夫次第で勝てるが、100倍差では無理)」としている。敵大軍による包囲戦への対策と、いかに撤退するかについての記述が目立つ。なお中国兵法書である『呉子』でも「平地では戦うな」「狭い場所で戦え」と説き、『六韜』においても「少を以って衆を討つは必ず日の暮れを以って深草に伏して、狭い道に要せよ(夜戦とゲリラ戦しかない)。伏兵によって左右を攻め、車騎(馬車・騎兵)は前後から」と説いている。『訓閲集』がこれら中国兵書から発展していることがわかる。

一方、中国兵法書の『孫子』「謀攻篇」では「少なければ則ちよくこれを逃(の)がる(自軍が少ないのであれば、戦わない)」と記し、その対策として、政治外交で決着をつける[8](勝てる機会を得るまでの時間稼ぎ)か、自国が勝てる国をまず攻め、相手軍を友軍として吸収し(兵を増やし)、不敗を守りながら勝機をまつ[9](この不敗の思想を実践した武田信玄引き分けが多い[10])。ただし、外交にしても同盟にしても裏切られる可能性はあるし、勝つ見込みがある国を攻めても損害は必ず生じる。どうしても寡兵戦闘が避けられない場合の『孫子』の戦法は、情報格差を利用し[11]、敵を十に分散させ、一対一で戦える状況を作り、各個撃破を手段とする[12]。この戦法は相手より先に情報を得ていることが前提であり、かつ相手には自軍の情報がなく、相手をコントロールできる状況で有効なものである[13]。つまり、「寡戦」から「対戦」(敵軍と同等兵数)や「衆戦」(自軍の兵数が多い)にする状況を作り出すことが『孫子』の戦法であり、この戦法を使用した例としてサルフの戦い・朝鮮の大軍を後金が各個撃破した)が挙げられる。そのため、総数の上では寡戦でも厳密には(直接戦闘の上では)寡兵戦闘ではない。

『孟子』とは逆の姿勢の記述をしているのが『淮南子』兵略訓で、「よく戦うものは少にあらず(よく戦うものは兵の少なさをものともせず)、よく守るものは小にあらず(よく守るものは陣の小ささをものともしない)」と攻防は大小では決まらないと記述している(攻撃三倍の法則も参照)。また『孟子』と似た(寡戦とは逆の)記述としては、『戦国策』の「群羊を駆りて猛虎を攻む」(弱者を集めて少数強者を攻める)があり、弱兵でも数があれば勝てるという思想も見られる。
武芸家が説く寡戦

『一刀流三祖伝』の逸話として、小野忠明は一対多の戦いに関して、「敵が万人をもって来るとも、一時に我に向かえる者は、8人の敵が八方から来るだけのものである。併し、その8人の打つ太刀にも遠いのと近いのと遅いのと早いのとがある」として、数に惑わされるのではなく、冷静に対応することを説き、「敵が大勢の場合、こちらから猛進するべきではなく、敵が10歩動けば、我は3歩動いて前後左右に身を転換するべき」と体力面でも相手の3分の1以下の動作で温存して対応するように説く[14]。ただし、これは近接戦闘における寡戦を説いたものである。
指揮・命令系統の問題

日本の戦国期は近代の軍隊のように司令官を頂点として指揮系統が一本化された組織ではなく、国衆や地侍の連合体であり、複雑であった[15]。さらに、近世期に太平の世となると、大名は徳治仁政が求められ(一例として、『温知政要』が挙げられる)、藩士を養うことが理想となり、一例として、熊沢蕃山池田光政の刀好きを諫めた逸話があり、話自体は俗説とされるが(大包平を参照)、名刀より名臣(武器を購入する資金があるなら多くの人間)を養えという教訓が見られる[16]。結果として、近世期の大名は次々と役職を作り、中には自分の趣味のために新しい役職を作った例もあり、丸亀藩6代藩主京極高朗は、あまりの相撲好きのために幕府から観戦を禁止された結果として、相撲の勝敗結果を報告する「御相撲方」を作り、10名以上の家臣を用いた[17]。こうした社会傾向と積み重ねにより、指揮、いわば上意下達の系統が複雑になり過ぎ、大軍であるにもかかわらず、命令の伝達に差が生じ、勝敗に影響を及ぼした例として、幕末の鳥羽・伏見の戦いが挙げられる。幕府軍は維新軍の3倍の兵力を有していたが、敗北した。その維新軍の勝因の一つが、西洋近代化によって統一された(シンプルな)指揮系統とされる[18]

また前近代では大将の首を取る(重心を狙う)ことが効果的・勝敗に影響を及ぼすが[19]、近現代の軍隊(軍制)では、上位が戦死しても命令系統は次の階級の兵士が引き継ぐため、前近代ほど勝敗の影響力は低い。これは政治の頂点でも同じである(内閣法9条)。前近代においても、影武者の存在によって、撹乱は行われた。

指揮官の装いの違いも生死を分けたことが指摘されており、磯田道史は、会津戦争において会津藩岡山藩が衝突した際、岡山藩の指揮官の戦死率が異常に高いことを挙げ、岡山藩の軍装は古く、黒ずくめの服装で統一された薩摩藩などと違い、上士陣羽織といったきらびやかな服装であったために見分けがついた可能性があるとしている[20]

西南戦争後、指揮官であった山縣有朋は、作戦執行においてちくいち政府に電信で許可を求めなければならなかったため、大事なところで後手を踏み、苦戦を強いられ、これをきっかけとして、作戦指揮権である参謀機能を独立させるべく、1878年明治11年)、陸軍卿の傘下から参謀局を切り離した[21]。これは西南戦争以前、指揮系統の問題から大軍を活かし切れていなかったことを示している。
現実的でない寡戦に対する批判

本郷和人(専門は中世史)は、都合の良い歴史を並べる皇国史観の芽生えが大正期に生じた結果(後述書 pp.197 - 198)として、昭和になり軍部が台頭し、明治期に有していた「戦いに対するリアルな視点」が失われていき、大和魂の賛美と「一をもって十を倒す」(自爆兵器で有能な兵士を失い、継戦力を失う)や「奇襲」(万歳突撃など)といった類の歴史ロマンが真実味をもって語られ、第二次世界大戦の敗戦につながったとする[22]

呉座勇一(日本史学者)は、太平洋戦争で日本軍が奇襲を多用した背景の一つである「鵯越の逆落とし」(源義経が平氏大軍を破ったとする奇襲)が転じて、「奇襲でアメリカ(大軍)に勝てる」となったが、上手くいったのは真珠湾攻撃など最初だけであり、後の研究で鵯越の逆落としは創作と考えられており、重要なのは、「歴史に学ぶ」(教訓)ではなく、「歴史を学ぶ」(歴史学=手法)であるとし[23]、歴史学的検証無き教訓(奇襲)を批判している。
寡戦の例
日本

続日本紀』におけるアテルイ - 地形と伏兵を利用した古例(朝廷軍を分断し、かつ川に追い詰めた)

倶利伽羅峠の戦い - 寿永2年(1183年)、『玉葉』の記述に従うなら、平家軍4万余騎に対し、源氏軍5千余騎が勝利。源氏軍が夜襲と挟撃によって退路を断ち、平家軍は混乱の末、倶利伽羅峠へと次々と転落して壊滅。


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